修行の道に入りたい・・・当たり前の毎日が修行とは???
人生で過去に3人の行者に出家したいと相談しました。3人目の行者は本物の対応を下さいました。
私は生命懸けで真剣に申しており、それに応えて下さいました。
その人は、人生相談から自己の体験談をお話下さり「修行しても、徳がなければ反動が来ること」「自分の場合は、やりたくて修行したわけではない」など・・・
写経200枚書いて送るように言われ、20枚くらい書いたところで感得するところがあり、それをそのままメールで送ると「そのことに気づいてほしかった」返ってきました。
要諦は「日々の生活が修行だと分からずに修行すると、修行に溺れ、慢心する可能性がある」ということです。
日々の生活が修行だという気付きは得たのですが、この頃どうも無気力です。がんばれません。
重度の社会不適合者です。
幼い頃から身体が弱く、13歳の頃に精神病になりました。親に責められ、大人にフリースクール、カウンセリング、医療機関などのたらい回しに合う中で、世の中への恨みを募らせて育ちました。
閉鎖病棟に数ヶ月入ったこともあります。
ふつうに働こうとするとノイローゼになるのですが、不思議と読経や祝詞をあげると楽になります。宗教的、修行的なことに対しては、ものすごく適応してしまいます。
仏教や神道の教えが大好きです。
今は、とある先達につきながら、勉強させていただいています。(今度お山に登拝させていただきます。)
先達も「生活が第一」と言っています。
お山やお滝に入り、世の中にお返しする為にも、アルバイトで生計を立てていきたいというのが私の本心です。
ですが、社会不適合すぎて、労働が辛くてかなわんのです。
集団から疎外されて育ち、適切なケアも受けられなかったせいもあるのでしょうが、人への恐怖や劣等感も強いです。
どうしたら、もっと精神を自由に、当たり前の毎日に、感謝し、心を強くする修行ができますか?
私は真剣に求道し道を極めたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
食べること、恋愛体質 対人トラウマ、人付き合い苦手 友達が出来ません 独りです
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
五感は時間も場所も宗派も選ばない
これはあなたが好き嫌いで受け入れられないというならスルーしてください。
修行ってそういう姿勢ではありません。
「行」は写経でも坐禅でも滝行でも何でもいいですが、そもそも修行と日常とを「分けている」からずれるのです。
する側、あなたが特殊感を事前にもとめている。あらかじめの理想ゴールがある。
そういうことを全部リセットしましょう。
山へ行く、写経用紙を目にする、坐禅する、滝に打たれる、ニンジンをまな板の上で切る、冷蔵庫を開ける、これを見る、セミの声を聴く、全部同じ事なのです。
知覚の上においては区別差別がない。
自分がゴールだと思っている理想のゴール地点がハナから妄想だった思うとよいです。
修行を成就した人、最高の心になれた人は、そういう妄想がとれてあなたの思考の前の事実にチョクで気づいたのです。
いまも修行にするべきでしょ。
今こういうことを言われて、いや、私の中の修行観はとか、私が求める修行とは、とかは修行でも何でもない自分をやっているだけなのです。
自分の精神的な自己満足を修行に求めてもそれは達成感だけで何も得られません。
今、何をしているか。
今、あなたの五感は何を知覚しているか。
そのものを感知、感受するときに思考や分別や好き嫌いが生じているのか。
それが修行です。
自分の思考以前のありようを見つめること。
山に登るなら右足左足と歩みを進めている時に、疲れも忘れ距離も忘れた無心の一歩がある。
写経であれば時の上手下手を離れて願いがかなうかなわないを離れた真実の一筆がある。
あだセミの声に耳を傾けてみてください。居なければ山へ行くなり、動画でもいいでしょう。
セミでなくてもいいでしょう。
ものを見る時、聞くとき。
そこに私流の思い方が何も介入されていないこと。
そこを明らかにしてはじめて修行になるのです。
それまでは自分のなかの修行めいたイメージプレイをしているだけなのです。
それをも捨てられるようにここで成長してから修行にのぞんでください。
世間の9割がたの人が修行の際に持ち物がある。
持ち物とは「自分の〇〇」です。
その自分の持ちもんをすてて、すてて、ただの知覚の塊になってはじめて道が開かれるのです。こういうことを言ってくれる坊さんは世に本当に少ないから今は分からなくてもコピペして大事に取っておいてください。みんな修行ポイことが好きなだけなのです。
ガイドとして
こんにちは。「日常が修行」、そんな気づきがあったのですね。嬉しいものですね。
仏教では「誰について(師として)修めるか」はとても重視しています。今は先達の方がおられるそうですから、よきご縁になるといいですね。変な話、お寺に生まれた坊さんは、師匠を選べない面があるのです(つまり父親)。
なのでガイドとして「マインドフルネス」と「レジリエンス」という言葉をご紹介します。
マインドフルネスは、元々ティク・ナット・ハン師という方が提唱された「日常の行動全てを修行にする」見方。「レジリエンス」は「心のしなやかさ・回復力(折れなさ)・を指しますが、ここ2・3年で結構書籍も増えてきました。
それらはあなたのガイドになるかも知れません。師から学ぶにも、絶対視しない方が学びが進む可能性もあります。あなたが心安らかに過ごせるようになるよう、祈念いたします。
修行で何を求めますか?
拝読させて頂きました。
おっしゃるとおり修行は修行のための修行ではありませんよね。
単なる自慢や自己満足の為ではありませんからね。
修行で何を求めますでしょうか?何の為の修行でしょうか?
今あなたがあるがままの心と体でできる範囲求めていくことで善いのではないでしょうか。
ムリは何でも続きません。
続かないならば求めるものに決してたどり着きはいたしませんからね。
あまり頭でっかちに考えるのではなく落ち着いて仏様にお向き合いなさって、ご自分の心にお向き合いなさってくださいね。
きっとあなたにあった修行方法がありますからね。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
宗教や修行を深く学べば学ぶほど、ワケワカメになるのです。
魔境といえば、オウム真理教ですが、突き詰めていえば、もっと身近な、宗教者に限らず、誰もが陥りがちな、人間の心理のような気がします。
当たり前の生活が修行なら、なんで山の修行なんて存在するのだろう?
また、内容を整理してから、質問し直すかもしれません。
駄文失礼致しました。