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修行の道に入りたい・・・当たり前の毎日が修行とは???

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有り難し有り難し 52

人生で過去に3人の行者に出家したいと相談しました。3人目の行者は本物の対応を下さいました。

私は生命懸けで真剣に申しており、それに応えて下さいました。

その人は、人生相談から自己の体験談をお話下さり「修行しても、徳がなければ反動が来ること」「自分の場合は、やりたくて修行したわけではない」など・・・

写経200枚書いて送るように言われ、20枚くらい書いたところで感得するところがあり、それをそのままメールで送ると「そのことに気づいてほしかった」返ってきました。

要諦は「日々の生活が修行だと分からずに修行すると、修行に溺れ、慢心する可能性がある」ということです。

日々の生活が修行だという気付きは得たのですが、この頃どうも無気力です。がんばれません。

重度の社会不適合者です。
幼い頃から身体が弱く、13歳の頃に精神病になりました。親に責められ、大人にフリースクール、カウンセリング、医療機関などのたらい回しに合う中で、世の中への恨みを募らせて育ちました。
閉鎖病棟に数ヶ月入ったこともあります。

ふつうに働こうとするとノイローゼになるのですが、不思議と読経や祝詞をあげると楽になります。宗教的、修行的なことに対しては、ものすごく適応してしまいます。
仏教や神道の教えが大好きです。

今は、とある先達につきながら、勉強させていただいています。(今度お山に登拝させていただきます。)
先達も「生活が第一」と言っています。

お山やお滝に入り、世の中にお返しする為にも、アルバイトで生計を立てていきたいというのが私の本心です。

ですが、社会不適合すぎて、労働が辛くてかなわんのです。

集団から疎外されて育ち、適切なケアも受けられなかったせいもあるのでしょうが、人への恐怖や劣等感も強いです。

どうしたら、もっと精神を自由に、当たり前の毎日に、感謝し、心を強くする修行ができますか?

私は真剣に求道し道を極めたいと思っております。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

五感は時間も場所も宗派も選ばない

これはあなたが好き嫌いで受け入れられないというならスルーしてください。
修行ってそういう姿勢ではありません。
「行」は写経でも坐禅でも滝行でも何でもいいですが、そもそも修行と日常とを「分けている」からずれるのです。
する側、あなたが特殊感を事前にもとめている。あらかじめの理想ゴールがある。
そういうことを全部リセットしましょう。
山へ行く、写経用紙を目にする、坐禅する、滝に打たれる、ニンジンをまな板の上で切る、冷蔵庫を開ける、これを見る、セミの声を聴く、全部同じ事なのです。
知覚の上においては区別差別がない。
自分がゴールだと思っている理想のゴール地点がハナから妄想だった思うとよいです。
修行を成就した人、最高の心になれた人は、そういう妄想がとれてあなたの思考の前の事実にチョクで気づいたのです。
いまも修行にするべきでしょ。
今こういうことを言われて、いや、私の中の修行観はとか、私が求める修行とは、とかは修行でも何でもない自分をやっているだけなのです。
自分の精神的な自己満足を修行に求めてもそれは達成感だけで何も得られません。
今、何をしているか。
今、あなたの五感は何を知覚しているか。
そのものを感知、感受するときに思考や分別や好き嫌いが生じているのか。
それが修行です。
自分の思考以前のありようを見つめること。
山に登るなら右足左足と歩みを進めている時に、疲れも忘れ距離も忘れた無心の一歩がある。
写経であれば時の上手下手を離れて願いがかなうかなわないを離れた真実の一筆がある。
あだセミの声に耳を傾けてみてください。居なければ山へ行くなり、動画でもいいでしょう。
セミでなくてもいいでしょう。
ものを見る時、聞くとき。
そこに私流の思い方が何も介入されていないこと。
そこを明らかにしてはじめて修行になるのです。
それまでは自分のなかの修行めいたイメージプレイをしているだけなのです。
それをも捨てられるようにここで成長してから修行にのぞんでください。
世間の9割がたの人が修行の際に持ち物がある。
持ち物とは「自分の〇〇」です。
その自分の持ちもんをすてて、すてて、ただの知覚の塊になってはじめて道が開かれるのです。こういうことを言ってくれる坊さんは世に本当に少ないから今は分からなくてもコピペして大事に取っておいてください。みんな修行ポイことが好きなだけなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ガイドとして

こんにちは。「日常が修行」、そんな気づきがあったのですね。嬉しいものですね。
仏教では「誰について(師として)修めるか」はとても重視しています。今は先達の方がおられるそうですから、よきご縁になるといいですね。変な話、お寺に生まれた坊さんは、師匠を選べない面があるのです(つまり父親)。
なのでガイドとして「マインドフルネス」と「レジリエンス」という言葉をご紹介します。
マインドフルネスは、元々ティク・ナット・ハン師という方が提唱された「日常の行動全てを修行にする」見方。「レジリエンス」は「心のしなやかさ・回復力(折れなさ)・を指しますが、ここ2・3年で結構書籍も増えてきました。
それらはあなたのガイドになるかも知れません。師から学ぶにも、絶対視しない方が学びが進む可能性もあります。あなたが心安らかに過ごせるようになるよう、祈念いたします。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

修行で何を求めますか?

拝読させて頂きました。
おっしゃるとおり修行は修行のための修行ではありませんよね。
単なる自慢や自己満足の為ではありませんからね。

修行で何を求めますでしょうか?何の為の修行でしょうか?
今あなたがあるがままの心と体でできる範囲求めていくことで善いのではないでしょうか。
ムリは何でも続きません。
続かないならば求めるものに決してたどり着きはいたしませんからね。

あまり頭でっかちに考えるのではなく落ち着いて仏様にお向き合いなさって、ご自分の心にお向き合いなさってくださいね。

きっとあなたにあった修行方法がありますからね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました。
宗教や修行を深く学べば学ぶほど、ワケワカメになるのです。

魔境といえば、オウム真理教ですが、突き詰めていえば、もっと身近な、宗教者に限らず、誰もが陥りがちな、人間の心理のような気がします。

当たり前の生活が修行なら、なんで山の修行なんて存在するのだろう?

また、内容を整理してから、質問し直すかもしれません。
駄文失礼致しました。

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