托鉢について
托鉢とはどのような行なのですか?
駅前に立っているお坊様がおられるので
見たらお布施をしています。
大概私もお坊様も無言です。顔も見ません。
たまに「ありがとうございます」と顔を見ておっしゃるお坊様もいてびっくりしますが
私がありがとうございます。とお金を入れるのが礼儀なのでしょうが、
意味もわからず、ありがとうございますというのも変なので 意味や托鉢について教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
功徳を発揮する。
托鉢そのものは、出家の方に施しをすることで在家の方が功徳を積むことができる、というのが伝統的な解釈です。
でも。功徳っていったいなに、となりますよね。
どうかご一緒にお考えください。
困っている人が目の前にいたとして、たとえば私が助けてあげるとします。
「ありがとう」と感謝される。感謝されると誰だって嬉しい。当たり前ですよね。
でも感謝されないと、
「何だよ、助けてやったのに」
って、助けたことが私にとって苦しみになってしまう。これはお布施でしょうか?
そうではなくて、お布施の意味は、誰かを助けることで自分の気持ちがまた救われることなのだと思います。
「これだけしか与えられなくてごめんなさい。でもあなたの幸せを願うことができました。ありがとう。」という気持ちが、あなたにとっても、そのお坊様にとっても大きな支え、安心のよりどころになるのだと私は思っています。この支え、よりどころを、おおいに発揮できるのが、布施や托鉢の「功徳の力」だとお考えいただければ。けっして崇高な、遠い夢物語ではなくて。
托鉢している側だって完璧ではないですし、普段の生活でも同じことです。
私たち僧侶だけではありません。私が好きでよくご法事で読んでいるお経には
『そのものの軽きをきらわず、その功の實なるべきなり』
(施し物が安物だろうと気にしてはいけません。施したことで、相手や自分の幸せを願えたか、その功徳が発揮できたかどうかが大事なのです)
『治生産業(ちしょうさんぎょう)もとより布施にあらざることなし』
(世を治め、生計をたて、生産をし、商い業をするのも布施と変わりありません)
とあるのです。
奈由さんのような方がいてくださる限り、世の全てに托鉢や布施の功徳がゆきわたるということです。
今どき金融主義、資本主義というと欲望の暴走みたいに言われますが、その仕組みと成り立ちをよくよく見てみれば。その功徳の発揮いかんでは、支えあって生きていこうという人々の心のあらわれとして。決定的な意味の転換がなされるかもしれません。私はそう祈っているのです。『金融資本、もとより布施にあらざることなし』と、いつの日か言えたら。
布施や托鉢とは、「私もあなたもみんな未熟だけれど支えあって生きていけますように」という願いを行いであらわしたものと、信じています。
貴重な布施行。本当にありがとうございました。
質問者からのお礼
浩文様回答ありがとうございます。
何度も読み返しています。