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死ぬことでしか救われないのかもしれません

回答数回答 3
有り難し有り難し 65

お久しぶりです。以前ご相談させていただいた者です。
有り難いお言葉に大変救われました。…が、この度今一度ご相談させていただいたのは、文頭にあります通り死ぬという選択肢しか考えられなくなったからです。

学校では将来のことを考えさせられる時期になり、職場では理不尽な嫌がらせを受け、家庭内では避けようのないストレスに押し潰されます。

自身の人嫌いは重々認知しております。それは時折激しい殺戮衝動に駆られたり、人間である自分に嫌悪感を抱き殺してしまいたくなるほどの酷く深いもので、他人はおろか、家族にすら理解されないものだと断言できます。
そのため周りは私がどれだけ人嫌いかを知らず、期待や責任、悪意を向けてきます。

人と接すると、日々心が死んでいきます。相手の顔色を伺い、相手の求める言葉をかける。そこに私の意思はなく、相手を満足させるためだけの笑顔を振り撒く。そうしてやり過ごしているうちに、殺戮衝動が芽生えるまでに心が死んでしまいました。

私にとって「人と接する」ということは、自分を殺していることなのだと気付いてしまいました。自分を犠牲にしなければ人と接することができないのです。
この苦しみから逃れるには、相手を殺すか自分が死ぬかしかない。いや、自分が死ぬしかないのです。

本当は逃げたいんです。学校や職場、家族や自分からでさえも。全部全部放り出して自由になりたいのです。
でも私が私である限り、私は私から逃れることができない。自分を苦しめるだけの自分から逃れることができない。それが私だから。
もう死ぬしかないのです。死後の世界でも自分は自分なので、本当の意味では解放されることなんてないのだろうけど、この世に存在していることが辛いです。もう頑張れない。もう何もかも疲れてしまいました。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分を殺している?誰がそんな?

こんにちは。文章がとても大人びていて、分析や表現も明晰。本を読んだり、文章を書くのが好きなのかなーと感じました。
でも同時に、思考に囚われている、とも感じます。それはつまり、「言葉に囚われている・言葉に酔っている」ということです。
貴女の「人と接すると、日々心が〜」の件(くだり)ですが、「相手とは関係ない"自分の心"を抑えて接している」ことを「自分を殺している」と表現しています。これって短絡的じゃありませんか?
「相手の顔色を伺い、気に入られそうな事だけを言う」というのは、元々処世術だったはずです。弱者のそれ、ですけれどね。貴女が過去、生き延びるためにはその戦略が必要だった。
けれども貴女は成長し変化して、「自分の心を大切にしたい」と思った。至極当然のことです。
そのためにすべきは?過去のパターンからは脱却することなのではありませんか?「自分を犠牲にしながら相手と接するのは、もうやめよう」。「貴女はこうなのね、私はこうだよ。違うけれど、まあ可能なところは一緒にやっていきましょう?」で構わない。コミュニケーションのやり方を変えるだけなのです本来。
でも貴女は、その中に「死」というワードを織り込んでしまった。元々の「抑える」を変えればいいのに、「死」というキーワードを入れちゃったから、そのワードに引っ張られてる。
誰だかが言っていましたが、「死」というワードは甘美です。そこへ逃げ込みたくなるほどの辛さだったのでしょうから、それを責めたりはしません。けれど、「自分の思考が作り出した仮説である死」に拘るのか、その囚われから抜け出すかは、ご自身で決めるよりありません。貴女のいう「自由になりたい」って、このことではないのですか?

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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恥ずかしがりやさん、なのかな?

まだお若い方のようですね。
だから、かなり恥ずかしがりやさん、なのかも知れません。
しかし人は、年をとるとだんだん図太くなります。
自分を隠さないで、自分を他人に見せてよいのですよ。
自分のダメな部分や恥ずかしい部分も見せてよいのですよ。

守り通す必要のないものを、守らないといけないと勘違いしていませんか?
もっと気楽に、テキトーになってよいのですよ。
例えば、私がデベソを他人に見られたくないから、他人を殺すか、自分が死ぬしかないと考えていたとします。
でも、実際には、他人にデベソを知られたって、他人にとっては別にたいしたことはないのです。
私が死ぬほと恥ずかしいと思っていたことが、実はたいしたことないのです。
あなたも、年齢を重ねればわかるかも知れませんね。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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泥中の蓮

やよい様

見当違いなことを申すかもしれませんが、きっと貴女様は、ある意味において純粋なのではないだろうかと存じます。

純粋であればあるほどに、純粋でないものへの嫌悪感が生じてしまわれているのかもしれません。

泥中にある蓮は、泥に染まることなく清らかな花を咲かせます。しかし、泥中でなければ、蓮は生きていけずに花を咲かすことすら、実はできません。

純粋な貴女様の心も、もしか致しますと同じであるのかもしれません。

どうかその純粋な心のままに、この欲界にあっても、染まらずに清らかな花を咲かせて頂ければ有り難いとも存じます。

是非、仏教を学び修して頂くことにより、清らかな花を咲かせて頂くこともお考えを下さいましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
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