生きていく自信が無い…
私は通信制高校に通う高校2年生です。
社会不適合者すぎて、もう生きていたく無いなと思ってしまいます。
といっても自殺するつもりなんてまったく無いんです。
でも、死にたいなぁ、死ねたらいいなぁ。
なんていつも思ってしまうんです。
最近は、何か嫌な事を思い出すたびに
「死にたいな」「死ねばよかったのにお前(私)なんて」
と呟くのが癖になってしまいました。
死にたいと思う時は……
・小学、中学のころの自分の精神年齢の低さを思い出した時
・挨拶ができずに、情けなくなった時
・勉強を面倒臭いと感じた時
・挫折した時
・他人に迷惑をかけて、自分の非常識さが目立ってしまった時
…主に、こんな時です。
大学受験もなんだかんだそろそろです。
でも入りたい大学も分からなければ将来やりたいことも分かりません。焦っています。
自分の人生に熱意が持てません。
すべてを投げ出したい気分です。いつも。
頑張ってもいないのに疲れます。
生きるのに疲れました。
どんな心構えで生きていけばいいんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
過去の自分への評価より、今の自分が何を思い、何を行動するか。
ちょっと自己分析をしてみましょう。
あなたの「死にたい」こんな時
・小学、中学のころの自分の精神年齢の低さを思い出した時
・挨拶ができずに、情けなくなった時
・勉強を面倒臭いと感じた時
・挫折した時
・他人に迷惑をかけて、自分の非常識さが目立ってしまった時
これを純粋な行為にして、評価を除きます。
・小学、中学のころは自分なりに自分を生きていた。
・挨拶ができないことがたまにあった。
・すきになれる勉強がそれではなかった。
・「そういう」経験をした。
・思ったことを言った。ついうっかり悪いとは知らずにやってしまった。(結果的に誰かに迷惑をかけた。)
あなたは、「今」それを思い返してワイドショーの評論家目線で自分をさばいています。
「今」リプレイして、何度も再生して、何度も裁いても自分が可愛そうです。
そこで、もうお裁きは終わったのですから、もうそれ以上深く自分を責めることは無駄に心を疲弊させます。
ただ、そういうことをしちゃっただけでしょう。
お若いころは誰にでも多かれ少なかれあるのです。
あなたはそこに向き合う勇気があるだけ立派です。
みんな、あなたよりそういうことがあっても「向き合う勇気」がないから、嫌われる人は嫌な人間性のまま、自分の非を隠しながら嫌われるまま生きていくのです。
あなたは、その体験を今から、力にすればよいのです。
その体験をどう活用するかは自分次第。
その体験を思い出すたびに凹むのは今日限りにしましょう。
その体験を恥じて、奮起してください。
もう二度とこんなことはしないように、心を強くしようと念ずるのです。
こんなことで死んでたまるか!という気もちを奮い起こすのです。
仏教では菩提心という心を大切にします。
自分自身が持っている力を駆使して他人様の御助けをしつつ、精神的な向上心をもって、怒りや我欲、わがまま、ネガティブ思考を離れ自分が理想とする立派な人を目指して成長していくことです。
菩提心。
私もかつて死のうかと思った人間ですが、そういう人間でも少しは訳に立つということを自分で実証中です。私が死んだのは「私流の考え方」だけが死にました。
人間を苦しめるのは「私はこう思う・私だけがこう思う・私の中ではこう思う」という自分だけのものの見方です。
成功体験
前回のご質問時に散歩を勧められていましたね。ゆうりさんご自身も散歩から始めてみたいとお答えになっていました。
さて、どうですか?実践してみました?
もしできていなくても自分を責めることはありません。ただ、ゆうりさんには成功体験の積み重ねがあると良いのかなと感じました。
散歩でもいい。ジョギングでもいい。料理でもいい。お花や観葉植物を育ててみるのでもいい。
何か一つ実際に始めて、挑戦して、継続してみませんか?
だれもゆうりさんの人生に代わってはくれません。
「死にたいなあ」という気持ちに逃げていて、一番困るのも、むなしくなるのもゆうりさんです。生きていく心構えも人から与えられるものでなく、自分で見つけ、態度を決めるものでしょう。
いつも投げやり。いつもなんとなく。だるい。めんどくさい。むなしい。
そこから立ち上がって抜け出すのはゆうりさんです。
立ち上がって頑張ってその先に何がある?と思うかもしれません。でもそういうことではないんです。頑張りたくないなら思う存分頑張らなかったらいい。でもそれじゃあ苦しいから相談してきているわけでしょう。
じゃあやりたいように頑張ってみたらいいんじゃない?ということです。頑張ったその先の結果が楽しいのではなく、頑張ることが楽しいのだと思いますよ。
泉をさがして
旅に出てみませんか。
一人旅は色々なことに気づかされるものです。それに行ってしまえば疲れていてもとりあえず動かなくてはなりませんから、自然と行動的になると思います。
ぶらっと一人旅がいいのは、そうやって動いていると自分の事をあまり考えなくて済むからですね。景色が動くと心も動く。そんな気がしませんか?
『死にたいと思う時は
・小学、中学のころの自分の精神年齢の低さを思い出した時
・挨拶ができずに、情けなくなった時
・勉強を面倒臭いと感じた時
・挫折した時
・他人に迷惑をかけて、自分の非常識さが目立ってしまった時』
全て『自分の事を考えたとき』ですね。
私も自分の事を考えるときがありますが、つらいです。至らない点ばかりが目につきますし。すべて投げ出したくなっちゃうのも分かる気がします。
社会不適合といいましても、ためしにネットで「日本 社会」に続けてあいうえお順にでもググってみて下さい。適合して大丈夫なのか考えさせられる言葉ばかりが続いていると思いませんか?
ともかく
熱意とは持つものではなく湧いてくるものだと思います。「熱意」そのものは手に入りません。あたかも泉を掘り当てるようなようなものです。ぜひまっさらな気分で未知のものに出会ってみて下さい。
心構えというより、あなたが心を構えてしまうような、場所と時間から少し離れてみてもいいと思います。自分の事も心構えからも離れて。
旅に出ると不思議なこともあるものです。なるべく人の多すぎないところに、突然「何だろう、これ。」と思うものに出会ったりしますから。物であったり人の所作であったり。その気持ちを大切にしていただきたいです。
目的地に縛られず、途中で「こっち行ってみよう。」的なかんじでいいので。
ちなみに今日、私も失敗しまして、ちょっと思いました。
ああ、死にたいなぁ、死ねたらいいなぁ。
久しぶりに、旅に出ましょうかね(笑)
「出離心」
ゆうり様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
少し自暴自棄なお気持ちをお抱えのご様子・・
気持ちは分からなくもないです。生きるということは、疲れて、しんどいこと、苦しいことも結構多いですもんね。。
しかし、仏教では、まずこの苦の現実を下手に紛らすのではなく、しっかりと認識することが非常に大切なことになります。
そして、この苦の現実から逃れたいとしての「出離心」を起こすことが求められるものとなります。
とにかく、この苦しみ、あるいは迷いの現実を、少なくし、いずれは無くすための教えをお説きになられましたのが、お釈迦様となります。
どのようにして少なくしていくのか、無くしていくのか、是非、より善く生きていくための智慧と併せて、仏教から学び修して頂ければ有り難いことでございます。
きっと仏教から色々と良いヒントを得ることができるのではないだろうかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
吉武文法様
あれから一度飼い犬を連れて散歩に行ってみましたが、それきりです。
自分の人生とは、自分でちゃんと向き合っていくべきですね。
まずは何か頑張れそうなことを、探してみます。
回答ありがとうございました。
浩史様
旅ですか。少しそういうの、憧れます(´-`).。oO
旅というほど大げさなものでなくても、部屋から出てそのへんをぶらつくくらいなら今の私にもできそう……?
回答ありがとうございました。気力があるときにでも、外を彷徨ってみます。
丹下覚元様
勇気があると言っていただけて、嬉しくなりました。
そうですね…責めているばかりでなく、力にしようと奮起するべきですね。
広い視野を持って、自分を向上させるべく…
もう少しポジティブに、人生頑張ります。
回答ありがとうございました。
川口英俊様
お坊さんからの仏教に基づいた回答には、いつもなるほど、と思わされています。
そうですね…仏教からは、きっとたくさん大切な事が学べるのだと思います。
少し興味を持って、いろいろと調べてみたいです。
回答ありがとうございました。