手に入らないものへの執着
こんにちは。
今日相談したいことは手に入らないものへの執着とそのあきらめる方法についてです。
私は今の自分を不幸だとは思っていません。
生活に十分なお金もあるし、健康もある。
趣味もあり友人もいて、自由な時間も、それを支えてくれる夫も。
それなのに、たまに自分が持っていないものが欲しくて欲しくてしょうがなくなることがあります。
結婚をしましたが子供には恵まれませんでした。
治療をしても成果もでません。
持ち家が欲しかったですが、夫との価値観の違いもあり賃貸に住んでいます。
素敵な男性と知り合いました。もちろん手など出せません。ずっと友達でいたかったのに、もう会えなくなってしまいました。
そういう手に入らないものにばかり心が捕らわれます。
自分でも人と比べれば決して悪くないと思うのにわかっているのに、考えてしまいます。
心のモヤモヤを取り除く方法があればアドバイスいただければと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
求めるモノが得られない。それは「授かり」である。
仮にそれを得たとしてもあなたのその姿勢ですと、必ず不満が出てくると思います。
✖ 無いものを想定する
◎ あるものに満足する
この二つの違いをじっくりバカにせずゆっくり読み取ってください。これが分かれば欲しがりは無くなります。
✖ 無いものを想定する
…これは、今の目の前をみていません。あまたの中を生きている姿であることが分かりますか?
現実に目の前に無いものというものは、何処に存在するのか?他の空間にあるのでしょうか?いいえ、あなたの頭の中で想像、想定しているのです。そしてそれを相手にしている。
◎あるものに満足する
…これは、今の目の前のものをちゃんと親しんで味わっています。今の現実に親しんでいる時は、人間よそ見をしません。心の浮気をしません。たった今触れているものを親しむスタンスですから、他に向かいようがありません。
たった、これだけの違いなのです。
お子様が授かれないのは苦しいことであると思います。
ですが、それでも同じ境遇でも、それを乗り越えておられる方々に真似ぶべきです。
私も、得られないものは沢山ありましたが、それが授かりなのです。
得られない、得られなかったという授かりであると思っています。
人生授かりでないものなどありません。
今授かっているもののなかで、アタマの中でよそ見をせずに親しんでみてください。
気がつけば、欲しかったものを放っておけていた自分に気づく日が来るでしょう。
「足るを知る」ということを、参究し続けましょう。
質問を読んで、むしろ私の方がハッとさせられました。 一応、偉そうなことを申し上げさせていただきますと、今回ご質問の「手に入らないものへの執着」というのは仏教で説く「」四苦八苦」のうちの「求不得苦(ぐふとくく)」にあたります。そして、それを解消する方法は、知足(ちそく)です。足るを知るということです。
私なりに知足とは何か勉強し考え続けてきました。人前で法話らしきことを行い、それを文章化し、それをブログに載せたこともあります。参考程度にお読みください。
法話30 足るを知る(前)http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/19674236.html
法話31 足るを知る(後)http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/19688865.html
人前で知足(ちそく)のことをさも偉そうに話し能書きを語っておりますが、
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そういう手に入らないものにばかり心が捕らわれます。
自分でも人と比べれば決して悪くないと思うのにわかっているのに、考えてしまいます
>
という心の動きが現在の私にもあります。所詮、私もその程度の人間です。自分の心を見つめてハッとして、「これじゃ駄目だなあ。」と思いながら知足(ちそく)の意味を繰り返し自らに問い直しております。
相田みつをさんの作品に「アレもコレも ほしがるなよ」というものがあります。誰もが自らの欲望に気づきハッとして反省しますが、長くは続かきません。結局、失敗を繰り返し、反省を繰り返しています。 私の一生はこういうことの繰り返しかもしれません。でも、これでいいのだと思います。自らを問い直していくことが大事だと思います。反省を繰り返していくことが大事だと思います。
蛇足ながら、
仏教では、正しく教え導いて下さる師匠のことを「善知識」と言いますが、いわゆる指導者(曹洞宗では、師家と言いますが)だけが善知識ではありません。
①、外護の善知識 外護者とも言いますが、修行を支えてくれる方。サポーターです。
②、同行の善知識 共に修行に励み、仏道を歩んでいる同志。
③、教導の善知識 教えを与え指導をしてくれる師匠。
月子さんが自らを振り返り自らに問い続ける限り、②の立派な同行であり立派な善知識で有り続ける。そう、私は信じております。
質問者からのお礼
丹下様 ご返信ありがとうございます。
「仮にそれを得たとしてもあなたのその姿勢ですと、必ず不満が出てくると思います。」
そのことは自分も承知をしています。
子供がいたら、子供もなく自由に遊んだり旅行に行っている友人を羨ましがったと思います。(今は自分が自由な立場です)
家があっても、ローンによって切り詰められた生活にやっぱり不満もあったと思います。
それは理解しているのですが、無いものが欲しいと思ってしまうのです。
無いものは頭の中にしかない想像で、あるものは親しみ味わうことができる。
よそ見をしないほどに親しみ味わうこと。もう少し、今あるものを大事にするように考えたいと思います。
アドバイスありがとうございました。
吉田様 ご返信ありがとうございました。
リンク先のほうも読ませていただきました。
「知足」のこと。わかりますが実践はとても難しいです。
お坊さまのように修行をされている方はどうかわかりませんが、現世に生きている限り
何かを欲しい、何かを手に入れたい という欲求が、
自分が生きて、今よりも成長するうえでも必要であると思うからです。
私は、欲深い自分もまた、人間らしくて好きだなと思うこともあります。
ただ、あまりにも深く深くひとつの欲に気持ちを捕らわれると、不満はたまり、寧ろ生産性は下がり、そんな自分が嫌になってくるのです。
ただ、ご回答を読み、欲望のままに突き進み過ぎないようコントロールして、正しい道であり続けられるよう。何度も何度も反省しながらも努力していこうと改めて思いました。
アドバイスありがとうございました。