生きる気力がない
なんども質問してすみません。
20年前に弟を自死でなくしました。私があのときもう少し気にかけていたら・・・と自責の念があり、そこから自分の幸せは望まなくなりました。
子どもが2人とも先天性の病気があったこともあり、この子たちが幸せになることが自分の幸せだと思い今まで過ごしてきました。
10年前には夫の転職により夫が定年まで単身赴任となり経済的にも厳しくなりました。子どもたちや家のことがすべてわたしにかかっていると思い、私もよりお給料の高い職場に移り節約して必死でいままでやってきました。
上の子が進学のため家をでて下の子も来年には進学するので、とてつもなくさみしく気持ちが苦しくなりました。でもこちらに相談しながらなんとか主人の定年まであと13年前向きに生きていこうという気持ちになっていました。
それなのに昨日主人の定年が5年伸びるということが分かり、定年まであと18年もかかることがわかり、なんとか頑張ろうと思っていた気持の糸が切れました。
家族がバラバラになった今、なんのために生きているのか分からなくなりました。
今はただ働くために毎日職場と家の往復です。笑うこともなくなりました。新しい服や美味しい食べ物にも興味がなくなりました。友だちや周りの家庭がうらやましくて妬ましくて、疎遠にしています。
幸せになる資格がないと思い生きてきましたが、周りのために生きることがこんなに幸せだったとは…なくしてから知りました。誰かのために料理を作ったり、部屋を暖かくしたり…そういった幸せを失ってしましました。
私はこの先どう生きていけばいいのでしょうか。
お金のために働き、死んだら迷惑がかかるのでかろうじていきている…今はそんな状態です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
意味は失われない
これまでいろいろな事がありながらもお子様のためにと踏ん張ってこられたのですね。それがある意味親離れのタイミングに来て揺らごうとしている…頼みの綱のご主人も定年がのびた…
まさに人生は何が起こるか分からない…しかし起こったことにたいする態度は自らが選び、決め、実践するわけです。そこに無限の意味が生まれます。人生から意味が失われることはありません。
〇〇のための人生というのは〇〇に左右されることとなります。〇〇が手に入らなければ不幸ですし、〇〇が手に入れば今度は失わないか不安になります。それは〇〇に依存した人生です。
しかし実際には〇〇が失われようと、「〇〇を失ったことに私がどういう態度をとるか」という自由があり、そこに希望や意味が見いだせます。
ご主人の定年が5年延びたなら5年定年より早く退職するというのも態度選択の一つですし、お子様やご主人以外の何かをご自身で探すというのも態度選択の一つです。また、お子様の進学後にご自身がご主人のもとに引っ越し全国の新たな土地を巡ってみるというのも態度選択の一つでしょう。
人生からまだ何を期待できるかという受け身ではなく、人生からまだ何を期待されているかという問いに主体的に応えていくのです。問うものから、問われ応じる者になるのです。
何かのせいにする限り、何かに期待し何かに裏切られ何かに依存し何かに沈んでいきます。
人生の意味における問いの観点の転換です。興味があればヴィクトール・フランクルについて調べてみてください。本回答の元になった考えについて深く知ることができると思います。
この考えは仏教の考えとも共通するところがあると思います。常に事実を認識し、現実を受け止め、そこに自らの態度を実践していく。
ともに考えながら歩んでみましょう。
質問者からのお礼
現実を受けとめて、そこに自らの態度を実践していく…私に出来るでしょうか。
でも人生から意味が失われることはない…と聞き、頑張る気持になりました。
遅々とした歩みになりそうですが、教えていただいたことを実践していきたいと思います。