仏説阿弥陀経と諸法無我について
仏教について、学生時代に少し学びました、
お釈迦様は、「諸法無我(自分という実態は無い)」と 解かれたと教わりました。
しかし、「仏説阿弥陀経」の中で、四カ所「我」という漢字が出てきます。
「我見是利」「如我今者」 「亦称説我」 「當知我於」とあります。
この上記の4つの「我」と、「諸法無我」の「我」は何が違うのでしょうか?
お教えいただければ幸いです。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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因縁仮和合
釈尊が否定されたのは固定的・実体的な我、つまり、常に一定であり単一で思い通りになる我の存在を否定したのであって、一瞬一瞬の刹那的な我、つまり、因縁仮和合として成立せしめられる我をも否定したわけではないのではないでしょうか。
おっしゃるとおり「実体がない」ということに尽きるのかと。
実体がないが、今・ここに我が存在しないわけではない。しかしその我は実体がない…う~ん、考えると迷宮入りしそうですね。
「ワレ惟ウ、故にワレ在り」という我は否定されても
「父は子ではなく、子は父でなく、しかも、この両者は相互に存在しないのでもなく、また、この両者は同時に単独で存在するものでもない。」『空性七十論』
と、ここでいう父として仮設されている我、あるいは子として仮説されている我の存在が否定されるわけではないということかと。
私も勉強不足ですっきり説明できなくてごめんなさい。
ん?
他宗派さんの経典なので仏説阿弥陀経には言及すまいと思っていましたが、ちょっと関心があり調べてみると「ん?」という内容だったので書かせていただきます。
予備知識ゼロですので、下のサイトの口語訳で裏を取りつつ読みました。
http://mjj.or.jp/amidakyou/amidakyou2
・「我見是利」は意味の上では「舍利弗。我見是利故説此言。」で一文とすべきです。
「舎利弗よ、私はこの利(念仏のご利益)を見たがゆえにこのように言います。」
つまりこの「我」は単純な一人称の主語であり、お釈迦さまも普通に使っている用法です。
ひょっとしたらお手元の経典で「我見是利。」と区切ってあるのかもしれませんが、経典は体裁や音律を調えるために文脈を無視した区切り方をすることがよくあります。ここでは諸法無我のような四字熟語で我について説いているわけではなさそうです。
・「如我今者」や「亦称説我」も同様です。
「舍利弗。如我今者讃歎阿彌陀佛不可思議功徳。」
「舍利弗。『如我今者』稱讃諸佛不可思議功徳。彼諸佛等。『亦稱説我』不可思議功徳。而作是言。」
まで一緒に読まねばなりません。
参考サイトから引用します。
【舎利弗よ、私が今こうして、阿弥陀仏の思いはかることのできないすぐれたはたらきをほめ讃えるように…】
【舎利弗よ、私がこうして、諸仏の思いはかることのできない、すぐれたはたらきをほめ讃えるように、その諸仏たちもまた、私の思いはかることのできないすぐ れたはたらきをほめ讃え、次のように述べるのです。】
・「当知我於」も同じですが、文の切り方がおかしいです。
「舍利弗當知。我於五濁惡世…」【舎利弗よ、よく心得てほしい。私は五濁に汚れたこの世において…】
もしくは区切らずに「舎利弗よ、私は…と心得えてほしい」とすべきです。
おそらく四字四字で体裁を調えるために「当知我於。」としているのでしょう。よくあることです。
どうも突き詰めても仕方がなさそうです。
なお、諸法無我は「私という存在がない」と読むより、「私の物ではない」と読んだ方が考えすぎになりにくいです。お釈迦さまの論点としてはあくまで「執着すべきものなど世界のどこにも無いのですよ」というメッセージですから。
人によっては「諸法無我は適切な訳ではない。諸法非我が正しい」と言う人もいるくらいです。
「全ては、縁起し空である」
匕デックス様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「全ては、縁起し空である」として、存在しているモノ・コトの「我」とは、実体としては成り立っていない「空」であるものの、全く存在していないという「無」、つまり、「虚無」・「絶無」ではなく、「縁起」(他に縁って起こっている)として、一応は成り立っているものであると言えます。
「諸法無我」の「我」も、経典における「我」も、いずれにせよ、上記のように、実体として成立していないという「空」であるものの、存在しているモノ・コトであるならば、何も無いというわけではなくて、吉武文法様もおっしゃられていますように、「因縁仮和合」、つまり、色々な原因や条件に縁って起こっている「縁起」として成立しているものであると言えます。
川口英俊 合掌
単純に、翻訳の際の問題です
多くの方がサンスクリットから漢訳したりしてくれたおかげで、私たちは今手軽に漢訳仏典に触れることができます。
しかし、翻訳することによって正確に伝わらないという場合もあります。
そういうことを恐れて、あえて訳さず当て字にするという「音写」というのもあったりもするわけで。
「我」という文字はかなりの頻度で経文に出てきますが、実は別の意味で使われていることがあるのです。
お坊さんでも混同している人は多いので、注意が必要ですね。
翻訳前の原典にあたって比較すれば一目瞭然なのですが、例えばよく出てくる、
「如是我聞」はevam maya srutam、
「諸法無我」はsarva dharma anaatmanと、
そもそも別の言葉に、どちらも「我」という字を用いているわけです。
如是我聞の我は「わたしは」という意味、諸法無我の我は「アートマン」です。
我は~を見るとか、我は今とか、我は~を説くとか、我は~を知るとかは、どれも「私は」と読み替えても差し支えないかと思います。
諸法無我の我とは文意が違うのです。
では「アートマン」とは、というところを語りだすと長くなりそうなので、簡単に。
仏教以前にもインドでは輪廻の思想はありました。じゃあ肉体が朽ちて何が輪廻するのか、ということを考えたときに、「輪廻する主体」と想定されたものがアートマンです。
しかし、縁起の思想によって「常住不変の輪廻し続けるアートマン」を否定したわけですね。
諸々のダルマ(法)はアートマンではない、という考え方です。
私の読み取りでは、このアートマンの否定も、「アートマンが無い」という否定ではありません。
どの経典だか論書だかは忘れてしまいましたが、アートマンがあるとかないとかいう論争自体を否定していた部分があったような気がします。
「そんなものは無い」という断定ではなく、「そんなことを考えていても仕方がないし、わかるはずもない」というスタンスです。
そういう立場からすると「非我」の方がしっくりくる気もしますね。
色々話し出すと文字数制限に引っかかってしまうので、せっかくですからまずはご自分で改めて調べてみてください。
その上で、また何か疑問がありましたら遠慮なくご相談いただければ。
質問者からのお礼
本当に沢山の ご回答ありがとうございます。
とても参考になりました。
「アートマンを我として翻訳しただけ」や「無は全くない という意味でなく否定の意味」など大変に勉強になりました。
自分でも勉強を進めていきたいと思います。