心の鍛え方、仏教的なコツを教えてほしい。
hasunohaでお坊さんたちの回答を拝見して、今まで自分は心を鍛えてこなかったということに気づきました。
人生色々とヘビーなことはあり、私はどんなことがあってもしっかり頼れる存在としてあってきたつもりで、自分ではメンタルを鍛えてきたと思ってきました。(機嫌がころころ変わり度々爆発するヒステリーな母を見て育ち、そういう女性にだけは絶対なりたくないと思って生きてきたので)、家族喧嘩や深く付き合った恋人の前以外で他人様の前で自分の感情のコントロールができずに、浮き沈みや波を見せたり迷惑をかけたことは全くと言っていいくらいありません。
他方で、自分一人でいる時は心の波がぐっちゃぐちゃにあり、私自身も躁うつ病の気があるのではと思われるくらい、行動力と向上心に満ち溢れている時と、死にたい自分なんて無用だと思う時を入れ替わり立ち代わり繰り返して不安定な人間であることに、社会人になってから気づきました。それは、もともと芸術家志向だったこともあって、芸術は爆発だてはないですが、そういった波や破滅的な思考があることを個性ととらえ、変なくらいが個性的で良いと肯定していたことも原因としてあると思います。
これらの結果として、他人様の前では極端にしっかりと人間関係がちょうど自分にとって望ましい方向に転んでいくように表面に出す感情をコントロールするくせに、自分の心自体をしっかりとマネジメントし平静に保つことについては、全くやってこなかったのではとふと気づきました。
特に恋愛面での嫉妬心や独占欲が、究極的に強い人間である自覚はあります。(彼氏を束縛しようとしてうざがられるような可愛いレベルではなく、彼氏の精神を上手いこと支配して自分に依存させ、絶対振られないようにしてきたことにアラサーになって気づきました。)
根本には家庭仲が悪くどうやってもうまくいかないことによる不安定があり、最近では早く信頼できるパートナーを見つけて結婚したかったのにそうできてない自分への焦りやらがあります。
さぁ心を鍛えようと思っても、座禅をして無になってみるくらいしか思い浮かばないのですが、それでは実際に人と対峙する時、特に家族や恋愛的な嫉妬の対象である男性と対峙する時には中々うまくいかないのではと思います。毎日できるトレーニングとあわせて、人と対峙する時のコツについて何か御助言をいただけるととても嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自分を鍛えない。nothingにならない
無になる…無になる…よく聞くフレーズですが、仏教でもっとも誤解されているワードの1つです。
無とは、これが私、あれが彼という垣根を取っ払って一切に通じ切ること。無は全。
だから修行して精神のレベルを上げるというのはアベコベなんです。そういうことしちゃうと垣根が高くなって自己主張が大きくなっちゃう。自己主張が大きくなればなるほど、苦もよりたくさん、より闇深くなります。
そうじゃない。そうじゃなくて、例えば鐘がゴーンと鳴る…聞こえたら聞こえたらまんま。これは良い音だ、とか安っぽい鐘使ってんなとか評価しない。ただのゴーン。それだけ。
それでもついつい色々考えてしまっても、「こんなんじゃダメだ!」なんてプラス1の思考をしなくて良いんです。気負わない気負わない。
心を鍛えるのではなく、手をつけない。うん、邦元師が手をつけないと表現なさってましたが、これは良い表現ですね。今まで私は手放すと言っていましたが、今度から私も手をつけないと言わせていただきましょう。意識に手をつけない。
物が少なく静かな場所で姿勢を正し、ジッとしていると、そんな感じのことをしやすいです。そんな感じの心のあり方をやってみて、それからそんな感じの心で日常生活をしてみましょう。
考えが湧かない人間に成るのではなく、考えが独り歩きし始めた時、「おっといけない」と気付き、その都度その都度「これ以上、手をつけない手をつけない」と調えるようにしましょう。
それから、自分はこういう人間です!理由はこうです!と定義しないようにしましょう。過去の自分は今の私ではありません。諸行無常です。諸行無常だから救われるんです。
心が、強い人なんて いませんよ
藤花さんは、素敵な女性ですね。
私は、心が弱くどうしても、愚痴愚痴してしまう事があります。
礼拝をしても、止観をしても、御念仏を唱えても、読経をしても強い心にはなれません。
無になんて到底なれよ。
そんな時に、私は 立ち止まるようにしています。
立ち止まって、眼をつぶってみる。
騙されたと思って、一度お試しください。
立ち止まって、手放す。。。。。。
手放す 事が 実は 佛教の、根底ですから。。。
コツ というのでしたら
立ち止まる トレーニングを してみてください。
手放す トレーニングをしてみて、
いろいろなものがみえてきますよ。
「全ては、縁起し空である」
藤花様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教では、「全ては、縁起し空である」として、存在しているモノ・コトであるならば、それらは、必ず他に縁って起こり(縁起)成り立っており、それ自体として独立自存、実体としては成り立っていないもの(空)と捉えることになります。
もちろん、私たちが「心」と呼んでいるものもしかりであります。
他に縁って起こるとは、簡単に申せば、例えば、色々な因縁(原因や条件)に依って成り立っているということであります。
その因縁次第において、結果も成り立つことになります。
因縁には、色々とあり得ますが、自分で調えることのできる良い因縁は、できる限りに調えられるように努めることにより、良い結果を迎えることもできるようになります。
人と対峙するのも、縁の一つ。一期一会として、丁寧に、大切に、相手(また、相手がどうであれども)と真心で接していけるように、真摯に向き合って参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
自分に巡り合ってください
拝読させて頂きました。
そんな自分のあり様をありのままに受け入れることでしょうね。
自分の心はいつ如何なるときも荒波の中で浮き沈みを繰り返しています。ほんの些細なことでも喜んだり悲しんだり悩んだり苦しんだり後悔したり怒ったりするのが自分ですからね。
そのような愚かな些細な自分を受け入れることかと思います。
そうすると穏やかな安らかな自分もいたりするのです。
そんな自分に微笑んでみることも有難いことです。
そんな可愛いい自分にも巡り合ってくださいね。
南無阿弥陀仏
合掌
質問者からのお礼
さまざまなアドバイスをくださり本当にありがとうございます。皆様お一人お一人のお言葉がつながり、最近疲れ果てていた心にとても響きました。何かあったら一度立ち止まって目をつぶり、日々日頃は自分が波のあること自体を受け入れ、鐘がなったらただ鳴った、考えが独り歩きし始めたら「おっといけない」と思うようにしてみたいと思います。そして、自分でハンドリングできる範囲は良い因縁がつながるように、今までより丁寧に生きていけたらと思います。