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仏様と桃の実の関係について知りたいです。

回答数回答 3
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こんばんは。
みなさまのお話を聴いて、毎日現実を生きていけるようになりました。
すごく気持ちがいいです。
改めて、ありがとうございます。

質問の内容なのですが、わたしが子どものときに、テレビのアニメで、仏様かお釈迦様かちょっとよく覚えていないのですが、桃の実を手にもたれていたのを見ました。
わたしは、それがすごく印象に残っていて、桃の実が大好きです。
仏様と桃の実って、どういう関係なのですか?
子どものときに見たお話なので、仏様がなんで桃の実をもたれていたのか、まったく覚えていないのです。
すごく知りたいです。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ちなみに、

桃は、昔は病魔や災厄を防ぐ力があり不老長寿の実として珍重されていたようです。

屋根に桃の形をした飾りを載せている寺院もあります。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

おそらく宝珠かと思います。

お寺のお堂に玉ねぎの様な形をしたものがありますね。
塔婆や五輪の塔の一番上の形。
あれは、スライムです。
ドラゴンクエストというゲームに出てくるキャラクターで、…あ、冗談です。
宝珠と言います。
悟りのシンボルです。
人間が持っている宝、智慧、慈悲、自由自在な働き、自分から自由になれる力の事なのです。
むかし、婆様が薪でご飯を毎日毎日焚いていたら、そこに宝珠が現われた、という話もあります。瑞兆、精進、修行の証し、悟りが行ぜらた境涯。
こちら側が無為無我になると世界中のあちこちに宝珠が現われます。
もちろん実際にはそういうカタチをしているものではありません。
そのもの、その人が、そのまま、素晴らしくなる、輝かしくなる、宝のような素晴らしい輝きを持つ、ということなのです。
よって、桃でもいいのですが、あなたにとっては桃がそれほどまでに輝かしい親しみある存在でしょう。
それが、今度は、全てに廻らされるようになっていくのです。
❝出逢って❞みてください。
全て、出会いとは、一期一会、その時その場それっきりです。
私の回答もそれっきり。
その中で、私の意図する宝珠を感じ取ってみてください。
分らなければ、また読み直してみてください。
その時はその時で、捉え方、思われ方が変わるかもしれません。
その時、あなたの手にはすでにモモも宝珠も仏心もそなわっているのですよ。
桃も愛せるように、スモモも愛せるようになってください。
スモモもモモも桃(宝珠)のうち。
桃もスモモも、今から出逢うことを言っています。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

如意宝珠をお持ちになった観音菩薩かと思います

桃の実に近い形のもので仏さまや菩薩さまがお持ちになっているとなると、如意宝珠だと思われます。そして、これをお持ちの仏、菩薩ということになると観音(観世音)菩薩様ということになります。

如意宝珠、観音菩薩などで検索していただくとインターネット上で詳しいことを知ることができます。

解説のなかで分からないことがあれば、またお尋ねください。

2015年10月19日訂正
如意宝珠をお持ちなのは観音菩薩ばかりだとはいえないようです。地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、吉祥天などもお持ちのようです。さて、私が観音菩薩です、といったのはある方の書かれた仏像の解説書を元にしたのですが、一冊だけを参照してものを言ってはならないことを教えて頂きました。済みません。

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おきもち

個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

質問者からのお礼

仏様がおもちになられていたのは、桃の実ではなくて、如意宝珠というものなのですね。
わたし、ずっと桃の実って思っていたので驚きました。
そして、如意宝珠をおもちになられているのは、観音菩薩様なのですね。
仏様のお名前がわかったのでうれしいです。

桃の実には病魔と災厄を防ぐ力と不老長寿の力っていうのでしょうか、そういう力があるのですね。
桃の絵か写真を印刷してお守りにしようと思います。

丹下覚元様のお話を聴いて、言葉では表現しきれないのですけど、すごく心に響きました。
そして、よくわかりました。
丹下覚元様が意図なされている宝珠とはこうかな?って思っています。
素晴らしいなぁとも思いました。
またまた心が救われました。
そして、桃の実のように、スモモも愛していきます。

丹下覚元様。和田隆恩様。藤岡俊彦様。ありがとうございます。

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