話を聞く時の心構え
話を聞く時の心構えについての質問です。よろしくおねがいします。
昔から仲良くしている友人の話です。
友人はよく心が弱っている時に連絡があります。
暮らしている場所がお互い離れているので、連絡手段はラインか電話です。
心が弱っている時連絡があるのは、かまいません。ウェルカムです。少しでも、気分が晴れて前向きになってくれたらなぁって思いながら話を聞きます。
しかし、自暴自棄になって私に向かって暴言を吐く・消えたい死にたいと発言すると言う行為は、返信する事に時間や気持ちが削られてしまい、私自身もしんどくなってしまいます。
ウェルカムと言っても、こう辛い連絡ばかりだと「たまには面白い話をしようとか、考えないのかな」と思ってしまいます。
友人の生活や顔は見えないし、私の私生活ももちろん友人には見えないのですが、友人の暴言一つでも、結構私生活にも響いてきます。ラインもよくよく考えて返すので、帰宅後ほとんど携帯をかまっている時もあります。
一つの事にしか集中できない性格なので、家事に支障が出る時もあります。
こんなのは私自身の判断で動いてるので仕方ないのですが、、、やはり同じ時間過ごすなら最終的にでも楽しく居たいなぁと思います。
最近、友人の辛い気持ちを汲む姿勢もなくなってきそうです。
どう心得て友人の話を聞くと、私までしんどくならずにいられるのでしょうか⁇
むしろ、↑こんな自己中心的な考えを持っているのでしんどくなってしまうんでしょうか?
よろしくおねがいします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
和顔愛語がよいと思います
最近はあらゆる情報を入手することができます。しかし多くは仮想の現実です。文章だけでは伝えられない感情もあります。結果としてそのことが苦しみの元になることもあります。
私たちは生身の体を持ち、眼・耳・鼻・舌・身の感覚器官(五根)で感じたことがすべてだと思い込んでいます。そしてこの情報にとらわれてしまうものです。しかし仏教では実はそうではなくて、見えないものや聞こえないことや触れてもわからないことの中に真実があると説きます。
とらわれてしまうことで苦しむのです。しかし、執着を捨てるというのはそう簡単にはできません。むしろ執着を完全に捨て去ることができたならば仏教修行の最高段階である阿羅漢となります。
お友達はあなたを信頼されているからこそ感情をむき出しに頼ってこられるのだと思いますが、しんどいときに1人だけで受け止めるにはつらいときもありますね。ぜひお友達にhasunohaでの投稿をお勧めいだいてはいかがでしょうか。
お釈迦様がお説きになった無量寿経というお経の中に「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉が出てきます。偽りやへつらいの心などはまったくなく、その表情は穏やかに微笑み、語りかける言葉は優しく響き、相手の気持ちを察して話しかけることで良好な人間関係を保つことができるという教えです。しかし、気持ちに余裕がなくなるとこうしたことができなくなります。お友達はそうした状態かもしれません。
さらに、自分の力ではどうしようも無いことをお助けいただけるのが阿弥陀様です。お釈迦様はその名前を呼びなさいと弟子にお伝えになりました。「南無阿弥陀仏」と声に出して称える、これを念仏と言います。「南無」はインドの古い言葉の「ナモ」を漢字に当てはめたもので「お任せします」という意味です。念仏はいつでもどこでも簡単にできます。どうぞ実践してみて下さい。
あなたはとても友達思いなのですね。
でもあなたは精神科医や心理カウンセラーではありません。
友達の苦しみを解決しなければならないという責任感に押しつぶされないように気をつけてください。
ただ聞いてあげるだけでいいと思いますよ。
死にたいとあれば、死にたいほど苦しいことがあったのね、と返してあげましょう。
もし友達がうつ病かもしれなければ、専門医の受診を勧めてください。
あなたは友達として聞いてあげるだけで良しとして、付き合ってあげてくださいね。