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自意識過剰な心

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有り難し有り難し 25

大学へ通い始めて半年が経ちました。

長い夏休みが明け、また入学時の頃の不安感が戻ってきてしまいました。自分のお腹のこと、気になって気になってまた授業に行くのが辛いです。

一度教室に入って授業が始まれば大丈夫なこともありますが、授業中ずっと頭の中でグルグル考えてしまってヒヤヒヤ脂汗をかいていることもあります。
大学なのだから途中で教室から出ればいいのですが、出るのでさえ恥ずかしいと感じてしまってそれで余計に自分の首をしめているように思います。

病院にも行きました。自分のせいですが上手く自分のことを伝えることができなくて改善することはありませんでした。

授業に出ることが一番大事なことだと思っています。ただ授業前に教室の椅子に座ってる時、始業のチャイムが鳴る時、授業中……1人パニックになってしまうので何か心を落ち着かせる方法がありましたら教えてください。

そして、教室を出る時も注目されてるかも…と緊張してしまう自意識過剰でガチガチな心の重りを外していくやり方もあれば教えてください。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誰かが私を見ているという自分の思いに👻ビビッてるのです。

高校時代に太宰治の「人間失格」を読みましたら自意識過剰という言葉が出てきて、その言葉のマジックに引っかかりました。背中に「自意識過剰」と書いて紙を貼っていました。本当に自分が小説に出てくる自意識過剰少年とリンクしたのでしょうね。女子「クスクス」
その後、小説読まなくなりました。あれ、結論、どうなるのか今度教えてください。
それはいいとして、それから自意識過剰という言葉に過剰に反応するようになり、人の目をやたらと気にしていた時期がありました。
人間って何なんでしょうねぇ。弱い生きモンです。人間はおそらく自分を見てもらいたい面もあれば、入ってきてもらいたくない聖地もあり、よりよく見せたいという気持ちもあれば、実際がモデルさんや芸能人さんのような恵まれたものを持っているわけでもなかったり、反対に持っている人でも自信がない人がいたり、さほど…と思われる人でも元気にぴんぴん生活しているというのはなぜだと思いますか。
それは簡単に言うと「一念にとらわれているかどうか」につきます。
自意識過剰といっても、要は「誰かが私を見ているんじゃないか」「私のことを悪く言っているんじゃないか」という「恐れ」が問題なだけではないでしょうか。要は自分のことをDISられたらり、低く見られたくない心理、安全地帯に居たいという気持ちがあるのでしょう。
結論先に言っちゃいますと「誰もそこまで見てません。」なのです。
じゃぁ何にびくついているのかというと、ここからが大切です。
「一念にとらわれている」と申し上げましたが、ここだけ気を付けていれば自意識過剰はすぐに去ります。
「あの人が私のことを悪く思っているのではないかという私自身の脳内ディスプレイに映し出された私の思いにびっくりしているだけなんだ」と。
わかるまで何度も読み返してみてください。
引きこもってしまったり、イイタイコトが言えなくなったり、なにもカキコできなくなってしまう心理も、人目を気にする心理も、ぜーんぶ「自分の脳内ディスプレイを一瞬よぎった操作線」にすぎないのです。
タイトルを10回繰り返し読んでみてください。
それがわかるまで。
すると、相手にしていたものが他人様じゃなく、自分の思いだと見抜くことができて、自分道レベルアップします。仏道は自分道黒帯を目指す道です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ただひたすらにお念仏おとなえなさってください

拝読させて頂きました。
大変辛い思いをなさっておられるご様子を読ませて頂きました。それでも頑張って学校に行っていらしゃるのですね。
あなたのお気持ちを心からお察し申し上げると共に心から応援させて頂きます。

私の大学の後輩がやはりあなたと同じような状態で学校に通っていました。彼の場合は胃腸の活動が活発な為にそうなるのでした。それでも彼は出来るだけ気にせずに通い続けておりましたね。
私ももともと緊張してしまう方ですから今でも何かある前から胃腸の調子が悪くなります、ですから今日の朝のお勤めの最中もトイレに行きました。
気にし始めるとそのことでいっぱいいっぱいになってしまいますからちょっと気になり始めたら迷わずに行くことです。
それが自然なあり方ですから気にすることではありませんからね。
あと私はちょっと気になり不安になったら心の中でひたすらお念仏おとなえさせて頂きます。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ…。
ただひたすらにお念仏おとなえさせて頂き、少しずつ心が安らかになって参ります。
心は常に移り変わるものですから自分でもとらえようがありません。
そのような状態の時にはただひたすらお念仏です。

あなたももし良かったらお念仏おとなえなさってくださいね。仏様やあまたのご先祖様のお導きやお見守り頂き、おのずと自信がついてきますからね。

どうかこれから頑張ってくださいね。あなたをこれからも応援させて頂きますね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

返事が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。お二人のお言葉何回も読んでいます。
どうもありがとうございます。

丹下覚元様
私は不安になると脳内ディスプレイに自分の最悪の場合の映像が流れているのだなと感じます。自分自身によって心を蝕んでいるのだと気づくことができました。このとらわれからの解放は難しいですが、ここに書いてあることをまずは意識することから始めていこうと思いました。
ちなみに私は人間失格は読んでいません。すみません。

kousyo Kuuyo Azuma様
確かに、一度そのことが心を捉えるとずっと離さないで心をひどく不安にさせます。お念仏を唱えるというのは捉えどころのない心のブレを小さくできるのでしょうか?まずはやってみようと思います。

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