自分にないものを持ってる人に嫉妬してしまう
閲覧ありがとうございます
結婚してる方を見るとやるせない気持ちになります
他の人の幸福を祝福できるならまだしも、羨むだけでは何にもならないのでこんな気持ちになりたくないです。
趣味で、知り合った人や尊敬している人が結婚してる・子供がいるなど聞くととてもやるせない気持ちになります。
しばらくすれば気にせず交流出来るし、元から知っていた人が結婚する分にはこんな気持ちにはなりません。
自分が結婚できるか
好きな人ができるか
その人が私を好きになってくれるのか
思いが通じたとしてもやっていけるのか
そういう自信がないところが全部が趣味の場で生き生きと活動して、なおかつ私が得られるか不安なものを持ってる人に
嫉妬という形で出ていると思うのですがこんな気持ちになりたくないです。
以前いただいたアドバイスも含めて努力もしていますが、やっぱりこう、好きなものを目の前にしたとき
関係のないことでマイナスの気持ちになってしまうのが辛いです。
どうこの気持ちと向き合っていけばよいでしょうか?
結婚願望が強いが「こじらせ女子」で周りのお子さんがいる方をねたんでしまうし、自分でイイ人が見つけられるか不安
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こころに思いを食べさせる。
わたしは、嫉妬も恨みもつらみも悲しみも恥ずかしみも
マイナスなものだとまったく思いません。
すべてわたしのこころの作用で、こんなにもたくさんの作用が
あるのかと驚くくらいです。
わたしも嫉妬することが本当にたくさんありました。
とくに同僚がお坊さん以外に社会での活動や貢献をしている
姿をみると、くそーーと思う事があります。
でも、それもわたしのこころが生み出したもので、
大事な大事な働きなんだろうなって思っています。
これはわたしが小学校のときのスポーツ少年団に
入っていた時に、先生がくれた教えのようなものです。
「まけたらいっぱい悔しがれ!相手を妬め!その
思いをこころが食べて、成長するんだ。
ご飯がおいしそうだ。食べたらうれしい!おいしい!と
言ってこころにそれを食べさせろ。
悲しいときつらいとき、いっぱい悲しんでいっぱい泣いて、
それをこころに食べさせろ。
身体がいろんなものをたべて成長するように、
こころもいろんなものを食べて成長するんだ。
からだもこころも大きくなれよ。」
というような教えだったんです。
これはいまのわたしを形作っている教えだと
思っています。
大事なのは、つらいものばっかりを食べていたり、
おいしいものばっかりをたべていたりすれば、
拒食症や糖尿病になっちゃうということです。
ときおりはこころを静めてしずかに椅子にこしかけ、
深呼吸をして、「静かだな」という思いをこころに
たべさせましょう。どこかにお出かけするのもありです。
こころを留めずに、いろんな感情を楽しむ、そんな思いを
持っていただけたら幸いです。
さちあれ。さちあれ。合掌
嫉妬で死ぬわけではない
たしかに、嫉妬(怒りの煩悩)が多いと、日常生活の悩み苦しみやストレスが増えますね。
ただ、嫉妬の苦しみは、人間がショック死するほどの苦痛ではないのです。
多少の嫉妬があるのも元気な若者の証拠、かもしれません。
昔、何かの本で読んだ話なので、あやふやな記憶の話ですが、
ある人が、ある偉い和尚さんに相談に来ました。
相談者「私はいい大人なのに、雷が怖くて仕方ありません。どうしたらいいでしょうか?」
和尚「雷が怖いなら怖いままで、べつによいではないですか。」
相談者「言われてみればそうですね。なんでこんなことで悩んでたんだろう。ありがとうございます!」
嫉妬はあるよりない方が良いです。
しけし、ちょっとぐらい嫉妬があっても、平気で生きていってください。
嫉妬する心の退治法
たう様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
人間だれしも「嫉妬」の心は生じてしまうものであり、それは仕方がありません。拙生だって全く無いわけではありません。
しかし、仏教を学び修する中において、持つ者も、持たない者も、実体としては存在していない、また持てるモノなども実体としては存在していないとして、人やモノに対して、実体視して執着することが少なくなっていくと共に、嫉妬する心も少なくなっているようには存じます。
もちろん、実体は無いとしても、何も無いわけではありません。モノ・コト、現象は存在しています。存在していますが、それらは、必ず他に依って、簡単には、因縁(原因と条件)に依って成り立ち得ているものとなります。
ですから、自分もその因縁さえ調えられれば、得られる可能性はあり得ることにはなります。
しかし、あれほどに得たい、得たいと思っていたとしても、所詮は、実体として成り立っているものではなく、因縁に依りて、また変わっていかざるを得ないものにもなるのであります。
(実体として)得たと思ったとしても、本当の意味では何も得れていないのですよね・・
そんな有為の世界のことに、あまりとらわれてしまっても無駄であり、それよりも、無為の世界へと向かう仏法を学び修することで、迷い苦しみから離れることを目指すのが、仏教的には大切なことにはなります。
としても、まだまだ貴女様には厳しすぎる意味となってしまうかもしれません。
とにかく、因縁次第において、この先は変えていけるのであります。善き因縁を調えることに努めることで、善き結果へと向かって参りたいものとなります。これは仏教でも変わりません。悟りへ向かうのも、そのための善き因縁次第なのです。
「因縁無くして結果無し」です。結果を望むのであれば、できる限りその因縁をです。少なくとも、嫉妬しても何も善い因縁にはならず、むしろ、逆に悪い因縁にしかならないのですよね、、
少しでも前向きに、善き因縁を調えていけるように考えて参りたいところです。
川口英俊 合掌