疑う心は無くせますか?
日本と北米、時差があるにもかかわらず毎日話してくれて、わたしと話す時間を少しでも多く取りたいから、と他の友達の連絡先を全部消してくれてしまうような、優しい男友達がいます。
鬱気味だった時期が長く、暗い性格のわたしが普通に話せる数少ない人です。
とてもカリスマ性のある人で、周りにはたくさんの人がいました。わたしも彼に心酔していた一人でした。
だから、わたしなんかをそこまで大事に思ってくれていることを喜びたいし、ありがたく思いたいのですが、
『本当は別の友達と一緒になってわたしのことを笑っているんじゃないか?』
『時々鬱が再発するわたしのことを面倒に思っているのではないか?』と突発的に不安になり、思わず八つ当たりしてしまったり、なんとなくもやもやしたまま会話を終わらせてしまいます。
その度に罪悪感と自己嫌悪に苛まれています。相手が悪くないことは十分にわかっているはずなのです。どうしたら卑屈にならずにいられるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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疑う心があってもよい。疑いながらも、「ありがとう!」
親切にしてくれる男友達の善意を疑ってしまうんですね。
そういう疑いの気持ちは、あっても良いと思います。
むしろ、疑いがある方が良いのかも。
その疑いが、他人に配慮する能力になるのではないでしょうか。
ただ、あなたが疑っていることを、相手にわざわざ言う必要はないかもしれません。
相手が善の顔を見せているときは、相手は、善の顔だけを見せたいときでしょう。
だったら、あなたはそのお芝居につきあってあげてください。
相手にとっては、それが心地よいのかも知れないのです。
あなたに親切にすることを、その男友達は気持ちよくやっているのではないでしょうか?
あなたは、彼への疑いを持ちながらも、疑いを全面的に出さないことで、彼を気持ちよくしてあげることができるのかもしれません。
疑いながらも、「いつもありがとう」とお礼を言っておけば良いのです。