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犯罪者とかに共感を覚えます

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有り難し有り難し 69

例えば宅間守だったり宮崎勤といった凶悪犯罪者と呼ばれる人物の言動や態度に共感を覚えます。
特に人間に対してのスタンスに一種の憧れを感じています。
遺族や被害者に詫びも反省もなく、罵倒や泣き叫ぶ周囲の人間に「ちっ、うるせえよ」みたいな態度。
本人達がどういう人生を辿ってきたかは知りませんが、犯罪がまるで雨や風みたいに原因不明でコントロールが不可能で突然やってくる、私達は一方的な被害者で犯罪を犯したやつが全部悪い。
そういう態度にむかっぱらか立ちます。
そういう人を考えるとお前らなんかいくらひどいめにあっても仕方ないわと思ってしまいます。
犯罪なんか永久になくならない。社会にいるお前らがそういう人間ならなと思ってしまいます。
きっともういいやと思って切れるやつがごまんと現れる気がします
犯罪=悪で滅するものだというなら、お前らが犯罪の原因だと言いたいです。
どういう過程でそういう事をしたのかと考えて欲しいです


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そのエネルギーは救いへ導く菩提心に転化させる必要がある。

人間がブラックな感情を持ったりサイコパス的な心理が生ずるのは、そういう環境でそだつことで「当然」だれにでも生まれるのではないかと私は考えています。別に本人たちも生まれながらに最初からそういう方向に進もうと思って生まれてきたわけではないでしょう。
あなたが共感したのは、犯罪者、行為そのものではないと思います。そういう行為に駆り立てた背景・影響力。彼らもあなたと同様しいたげられた背景や否定された過去があって、その抑圧・屈曲された力、爆発的エネルギーが社会的に悪しき方向へ働いてしまったということではないでしょうか。
彼らだって人としての当然幸せになれる権利や可能性もあった。ところが、家庭環境や学校でバカにされたり、恵まれない状況に処することになった。いわゆる世間の安全地帯に生まれなかった。それさえなければ彼らだってきっとまっとうな人生を送っていたのではないかということではないでしょうか。だとすれば、あなたのその指摘は周りの方々は悪く言うでしょうが、私は実に的確な鋭い指摘であるとも思います。仏教ではそれを生まれを選べない苦しみ「生苦」といいます。
もちろん、彼らの犯罪行動・猟奇的な行為は社会的に許されることはありません。
そんなことはどんな殺人であっても許されるものではない。
ただ光の当たらない人はいる。一隅を照らして、彼らをはじめとする本当にこんな状況や家庭、場所に生まれたくなかった人の中でいくら苦しくても叫んでも声が届かない人たちがいる。そんな人たちを救ってあげたいという気持ちとして受け止めさせていただきます。誰も踏み込まない領域に光を注いでいただき、ありがとうございます。
ただ、あなたの気持ちが誤解されてあなたが本当に伝えたいことや、その叫びが届かないといけませんので、すこし気持ちを修正させていただきました。
どんなに正しい正義でも暴圧的になったり、殺人を認めるような意見では誰も耳を傾けてはくれないものです。
あなたは、苦しみを受けた分、人の痛みが分かる人間に成長していっている面があるのです。
後は、あなたが菩提心に目覚めて、救いのはたらき、助けのはたらきにエネルギーを注げばあなたは社会の底辺で苦しむ人間たちをも救える人物となるでしょう。
追伸
親から支配されている感覚は外せます。
そもそも出家ということはそういう面もあります。力をそっちに注いでみてほしいです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

だったら、お母さんにも共感できるはず

あなたのお母さんも、今の法律だったら児童虐待(心理的虐待)でアウトだと思います。

あなたのお母さんこそ法律や道徳を破っている犯罪ババァです。

あなたが犯罪者に共感できるなら、あなたのお母さんにも共感できるはず。
あなたが犯罪者を許せるなら、あなたのお母さんも許せるはず。
自分がやられるのは嫌だが、他人をやっちゃった犯罪者には共感できるというなら、それは、他人(子供)に八つ当たりするお母さんと同じではないでしょうか。

お母さんに共感してみてはどうでしょうか。
お母さんはお母さんで、そうせざるを得ない環境・能力・苦しみを背負っていたのではないでしょうか。
もちろん、誉めるべきお母さんではないですが。

仏様のような能力があれば、子供に八つ当たりするようなパニックに陥らないのです。
あなたのお母さんは、仏様のようにキャパが大きくなかったから、すぐにパニクってしまったのでしょう。
お母さんがあなたに怒鳴っていたときは、お母さんの脳ミソのキャパが追い付かずパニくっていたときだったのです。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

うん…まあ、なんとなくわかりました。かなり感情的になって書いたのですか…。
光とか安全地帯という言葉がありますが具体的にどのようなことを指すのでしょうか。
僕にはなんというか普通の家庭というのがよくわからないです。遥か遠くのほうに追いやったものを見てる感じです。
かなわないものといいますか。
今はただ復讐心と戦う毎日です。
憎しみは消えない、そう簡単には。
少なくとも僕は法律だとか道徳だとかを激しく恨んでいます。
「親を敬って尊敬するのは当たり前だよな?」
そう言って母親は激しくどなり散らして何時間も正座させられて聞かされてきました。自分がいかに偉いか、苦労してるか、生かしてやってるから感謝しろと。

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