hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

愛する人を亡くしました

回答数回答 2
有り難し有り難し 37

愛する人を亡くしました。
進行の早い病気で、でも希望を捨てたくなかったので、治療がうまくいく前提でしか話をしていませんでしたが、結局は…。
こんなことになるなら、もっと彼に対する感謝の気持ちを伝えたかったという後悔の思いばかりです。

私は、魂とか輪廻転生というようなことを信じています。
人は亡くなった後、49日までは魂がこの世にいるのですよね。だとしたら彼の魂は家族のところにいるのでしょうか?
私は彼の家族ではありません。

彼は天国に行けるでしょうか。
家族を大切にしている人でしたが裏切っていたことには変わりないので、それは“悪いこと”であり、天国には行けないのでしょうか…。

また、愛する人の死を“乗り越える”とはどういうことなのでしょうか。
彼が亡くなって以来、頭ではわかっているものの、気持ちがついていけません。それでも私は普通の生活を送るしかなく、自分は何をしているのだろうという気持ちになったりして、どうしたらいいのかわかりません。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛別離苦の解脱法

愛する人の死を乗り越えるとは、愛する人に対する心の執着がなくなることです。
仏教では愛別離苦と言いまして、愛する人との別れの苦しみを言います。
愛する人というのはもともとは他人様なのです。
たまたま、縁があってあなたという人を認めてくれたり、価値観が近かったり、褒めてくれたり好意を持ってくれたり、一緒に居てなんか気楽だったり心地よかったりで、総じて人間は「愛着」が生じます。
スキ、愛してる、君が欲しい、まぁもぉりたぁい(ニベア風に)。
全然知らない人から「守りたい」言われても、へ?と思うものです。
そもそもが、人間は誰のものでもなかったということをよくよく思いを巡らす必要があります。
天国に行っていないのはあなたのこころでしょう。
厳密にはあなたとその人との間の「禁断な」感じや後ろめたさが天国、極楽、安楽しないのです。
こういっちゃなんですが、好きになったという気持ちはホンモノでしょう。
それをあなたは完全肯定できないから苦しいだけです。
あなたに旦那がいようが、好きになってしまったはなってしまった。
ですが、好きや愛しているということの本当の理由に向き合うことの方が大切です。
苦しいときにちょっと優しい言葉をかけられたくらいで人って他人を好きになってしまったりするものです。それって、その人を好きというより、自分を好きでいてくれるその人が好きという条件付け付きだったりします。
本当に輪廻転生するなら、今すぐあなたも輪廻転生することです。
それは現代的には、この身心が前のことを残さずに彼が死んだ後も、今日は今日で新しい風を浴びているということ。あなたも良い意味で輪廻転生して、一瞬一瞬解脱しているのです。
49日も過ぎれば、あなたと彼の関係も執着のあり方も変わり、文字通り生まれ変わった関係が始まる。
いまだってもう生まれ変わった関係でしょう。
死後の世界の生まれ変わりというものは思想的な面があります。
そういう世界があると信じるならば、そういうものを追うのもよいでしょうが、人間はファンタジーでは救われません。
それよりもこの世界であなたが、彼とのかかわりのあり方において生まれ変わり続けていけばよいのです。
成仏とは一瞬一瞬の様子。
瞬時瞬時、われわれは無限に変化しています。
彼に対する今の思いはもう先程の彼に対する思いではないことをよくみるべきです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

死を乗りこえる4つのステージ

yuiさん、はじめまして。質問を拝読しました。

”愛する人の死を乗りこえる”ことについて書いておきます。
それ以外のことについては、今回は触れないでおきます。

悲嘆ケアといい、大切な人を亡くした後に心のケアを必要とすることがあります。喪失があまりに大きすぎると心のバランスを崩してしまうことがあるからです。

”愛する人の死を乗りこえる”ために必ず4つのステージをたどっていきます。

1.空白
悲しみという感情がスッポリと抜け落ちてしまい、空白のような状態になります。
「悲しいはずなのに涙が出ない」と考え込んでしまうこともありますが、喪失が大きくて心が壊れないようにブロックしているだけです。

2.落ち込み
空白の時期を過ぎて、少しずつ現実と直面します。この時、感情が大きく振れることがあります。突然に泣き出したり、怒り出したりします。深い谷底へ落ちていくような感覚にとらわれることもあります。

3.受け入れ
この段階でやっと喪失の悲しみを受け入れることができます。仏教では諸行無常と説きます。川上(かわかみ)から流れてきた水は川下(かわしも)へと流れていきます。川下の水は再び川上へと流れていくことはありません。
人の死も同じです。亡くなった人は還ってこないのです。

4.思い出
喪失の悲しみを受け入れていくことができれば、大切な人の死を思い出としていくことができるようになります。いつまでも故人を忘れることなく、供養していくことができるようになります。

それぞれの段階は、どれぐらいの時間がかかるのかは人それぞれです。
ですが、4つのステージをたどっていくことは変わりません。

知識として知っておいてくだされば幸いです。

{{count}}
有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

質問者からのお礼

ありがとうございます。
私は生きているのだから前を向かなければいけませんね。

2件目のご回答の4つのステップの内、1と2を経験しました。あとは3と4がやってくるのですね。

いずれにしてももう少し時間が必要ですが、ご回答いただいたことを心にとめてがんばります。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ