お葬式に行きたくない
変な話ですが、ずっと家族に迷惑をかけていた親戚が病気で余命半年って宣告されました。
わたしはずっと彼に死んでほしいと思っていたのでその話を聞いて悲しむどころか嬉しくなりました。ようやく死んでくれるんだって。
かなり近い親戚なので、両親にも礼服を買っておくよう言われており、必ず出席させられると思います。
彼は精神障がい者なので周りに人がいなく、式も家族でのものかと思われますが、こんな考えの私がどんな顔で参列するのでしょう?
こういうものはかなり前に祖父の葬式に出たきりですが、思い出してもどの場面でも今の私に悲しい顔をできるとは思えません。
こういうのは仏教的にどうなんでしょうか?
私にはそもそもあんなにお金をかけて葬式をする意味がわからず(お坊さんに対しすみません)、形だけで悲しむだけなら参列したくないです。
昔、朝起きるのが難しかった時期に、お葬式に行くのを嫌がったところ激怒された経験があり、尚更そういった場が苦手です。
親を説得できるとも思えませんが、何かアドバイスいただけたらと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お葬式は悲しむ為であったりざまあみろとおもったりする場
だけではないとわたしは心得ます。
どんなひとでも死ぬ。
そして、どんなひとであっても死んだのだから「やすらかに」と、
自分のこころを清くして、いのることに意味があります。
自分もいつかは死にます。
あなたもいつかは死にます。
わたしは死が怖いと思う事があります。
でもそのときはいつも「明日、お天気であるようにと祈ることと
同じだ」と念じて、死後を明日と置き換え
「よき日となるように。よき明日となるように。」と祈り、一日を
終えて眠ります。
葬儀とは、誰かの明日を祈ることでもあり、自分の明日を
いのることでもあります。
よく「死んだら無だ」と、仰る方がおります。
その考え方に否定はしません。
しかし、ほんとに「無」なら、遺された人達の記憶からも
消えねば「無」ではありません。
あなたももしかしたらそのようにお考えかもしれませんが、
あなたが死を望んだ相手のこれからが「無」だとおもうなら、
こんなところに書き込みなどできようがありません。
記憶からも消えてこそ「無」です。では、あなたにとって、
憎い相手は「無」であったでしょうか。
残ってしまっているから書き込まれたのではないでしょうか。
ならば、本当に「無」にするためには、葬儀に参列して、
焼香と一緒に記憶を燃やして炊き上げて無にしたらよろしいのです。
儀式とはそのようなものです。
くぎりをじぶんで付けられないから、儀式があります。
だったら存分に利用したらよいのです。
ただ願わくば、僅かであっても冒頭に記したように、
「酷いひとであったがどうかやすらかに」の祈りを捧げて頂けたらと、
存じます。
あなたがこころを清くし、自分ではなく、だれかへの安らぎを願える
数少ない機会となるはず。
避けられぬなら受け入れて、善き機会とすることで、いま一歩、
素敵なおとなへとなっていただけたら、心の狭い世の中に、
あなたという人が不可欠になってくることでしょう。
いずれにしろ、御自身の考えを親御さんにもお話され、
行くか行かぬかのご判断は御自身で下されたらよろしいのでは
ないかと思います。
あなたにさちあれ。
あなたの嫌う亡き御親戚に、さちあれ。
亡き人の人生をねぎらい、死を悼み、来世の幸福を願う
お葬式の意義について、私なりに理解しているところで説明させていただきます。
タイトルに「亡き人の人生をねぎらい、死を悼み、来世の幸福を願う」と書きましたが、お葬式の意義は以下の3つのポイントに分けられると思います。
1、今まで頑張って人生を送ってきたことをねぎらう。
2、しかし、現実は思い描いたようにはいきません。思い描くことすら、ままなりません。悔いのない人生を生きたいと思っても、思ったようにはいきません。悔いは残ります。無念さは残ります。それだけに、「悔い」や「無念さ」に寄り添い、その方の死を悼んであげましょう。
3、来世の幸福を願う
この世の人生に悔いが残るからこそ、来世で幸福になって欲しい。来世が幸福となるよう、力づけてあげたい。そういう思いを込めて、お焼香し手を合わせお見送りするのです。
このhasunohaには葬儀について多くの質問が寄せられております。私が回答僧になって間もない頃の質問にもそのようなものがありました。こちらの回答もご参照下さい。
https://hasunoha.jp/questions/548
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私にはそもそもあんなにお金をかけて葬式をする意味がわからず(お坊さんに対しすみません)、形だけで悲しむだけなら参列したくないです。
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地域差もあるかもしれませんが、明治大正昭和初期から都市部には葬儀屋さんはあったようです。しかし、いわゆる田舎と呼ばれる地域には葬儀屋さんはほとんどありませんでした。隣組の呼ばれる組織が同時に葬式組と呼ばれる組織を構成し、隣近所の方々が亡くなれば、納棺、祭壇の設営、通夜の食事の準備、葬儀用品の製作、葬列の準備、埋葬等葬儀全般をほぼ無報酬で務めてきました。つまりお互いに協力し合って人手をかけるから、お金をほとんどかけないで葬儀を行うことが可能だったのです。
田舎の方に葬儀屋さんが営業を始めるようになったのは昭和30年代から40年代のころだと思います。この頃の葬儀屋さんの仕事は、遺体を入れる棺の用意、祭壇の設営、霊柩車で火葬場へ遺体を搬送だけだったと思います。葬儀屋さんの費用も今日に比べれば安かったと思います。隣近所の協力が少なることに伴って、葬儀屋さんの仕事が増えてゆき、葬儀屋さんへの支払いが高騰してきました。