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義父の育児に対する口出し

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有り難し有り難し 9

以前、こちらにてご質問させていただきました。

義父が私の子供の育児に関して、すごい口出ししてきます。
言うことが毎回違うので、私がしたいように育児を出来ずストレスが重なります。私の我慢が足りないせいもありますが、義父は自分の感情に任せて私が怒られることもあります。それは私も子供について、ついついやってしまうこと…主人に言われ反省です。

例えば、子供が美味しそうにご飯を食べていて、私や主人が美味しいねと子供に問うと、黙ってみとれと言うんです。
それは義父がテレビをみたいからうるさいんだろうと思うときもあれば、義父が子育て世代のときにできなかったことを私らに押し付けてくる。
朝から泣いている子供を好きなだけ泣かせておいたら、朝から何泣かせている恥ずかしいと怒鳴られました。

子供に口出ししすぎだと言われるが、義父は主人(義父の子供)に対して口出ししすぎです。こうしないと将来はああなるぞ!ばかり…自分の生きてきたことを押し付けてきます。色んな選択肢あるのに…

主人や義母にしたら、気にしなくてもいいのに〜〜と言われてしまいますが、どうしても育児のやりにくさ、私はダメな母親なんだ、ダメな人なんだ、中々気になることばかり…家事育児のことに対してやる気を失いかけてます。

私の人間としての我慢の器も小さいと思いますが、正直言い方が強すぎて怖いです。私も子供に対してそういう風に怒ってるみたいですが。

義父の顔を見るのが辛くて、子供を連れて部屋に籠もりがちにになりました。それでも休まらない、私はこうしたい、私は正しいはずという心の正当防衛みたいなのが働き素直に聞けないです。

育児ストレスに加え、義父のワンマンな性格について行けず、同居解消をしたいのです。
私のワガママな気持ちで同居解消をすべきか意見や考えを聞かせて頂きたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ドラえもん翻訳大作戦「言われたことだけは聞いてみる」

自分のためにも子供のためにも義父のためにも良くあるように、が結論です。
理想論としては、専門が推奨する「最高の子育て」のあり方はある程度決まっているはずです。あえて、それを模範・教科書にするとよいでしょう。
今の段階では、どっちも自分が正しい自分が正しいのケンカ・意見の対立です。
家庭の中に自分たちよりも偉い存在がない家庭は一番偉ぶる人間が偉くなります。
仏教でも仏壇をまつるのは自分が一番にならないという面もあります。
人間はそんなすぐに偉くならない方がいいと思います。
義父の言い方は絡み方はウザいでしょうが、その言い方を捨てて文言だけを拾えば間違ったことを言っていない場合もあるはずです。
絶対にそういう言い方をしないでしょうけど、超丁寧語でドラえもんがしゃべっていると思って何か言われる際に変換するとよいでしょう。「ご飯の時は、こうするといいんだのび太君。」
何でもかんでも義父の言うことは間違っている、うるさい、ムカつく、ではあなたのやっていることはすべて完璧、正しい、最高、非の打ちどころもないということになります。
そんな完璧な人はいません。
お義父さんの言い方が気になるようでしたら「お義父さん、いつもご指摘、ご助言ありがとうございます。で、お願いがあるのですけど、もし、何かお気づきになられたことがある際なんですけど、相手にとって受け取りやすい形で言っていただきたいのです。外交や会社でのやり取りでも、相手にスムーズに伝わる言い方があるはずです。家庭とはいいましても、もう少し柔らかく言っていただけると私も素直に聞けますよ。私もまだまだ母親としては始まったばかりですけど、お義父さんも、私の義理のお父様になっていただいて、まだ〇〇年と〇カ月です。お互いがまだまだ完璧じゃないと思うんです。今後もお義父さんとはうまくやっていきたいので、私は結構打たれ弱いので、もっと優しく言ってくれるようにしてもらい得ないでしょうか。」的に、あえてみんなでご飯を食べている時に言うことが効果的です。
🍢つんつんしながらも、お互いに利点になるように、かつまた、相手を尊重しているよ、というアピールが無いと、どっちも敵図式を続けていくことになるのです。
日本と各国との外交も、お金や政治の話を抜きにして、純粋に相手を尊重している姿勢を見せれば大きく関係性は変わるものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

非常に遅くなりました。
何度か言い方についてはキツイので柔らかくして欲しいと言いましたが、聞く耳を持ちません。そして、毎回バチバチでまだ幼い子供達が空気を察知してるのが情けなくて…
私も大人になるまでに時間がかかりそうです。

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