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遺骨ペンダントについて

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有り難し有り難し 47

いつもお世話になっております。
亡父の事でずっと迷いがありましたか、進むべき道が開けそうです。
アドバイス頂いた住職さま感謝いたします。

またまたアドバイス頂きたく、質問させていただきます。

「遺骨ペンダント」についてです。
遺骨は土に帰すのが一番良いとの考えから、遺骨をペンダントにするのを悪く思われてる様ですが...(・_・;
落としたり中身の流出を懸念しての事なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

手元供養は遺骨崇拝

Uこさん
遺骨ペンダントを含め、ご遺骨を納骨せず、自分の身近に持つ事を近年「手元供養」と言われています。
これは世界中でも日本特有とも言える「遺骨崇拝」を原形にしたものです。特に仏教思想にあるワケでは無いと思います。
気持ちとして理解しますので、否定はしませんが、遺骨は亡骸であって故人そのものではありません。
大事なのは、Uこさんの亡きお父さまへの想いです。遺骨ペンダントを持つ事で、故人の教えを再確認できるのなら、その意義アリです。
ただ、Uこさんご懸念の通り、如何なる形でも、いつかは自然に還るものだということは、心得ていて下さい。

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おきもち

石川県金沢市内の城北地区鳴和町で浄土真宗本願寺派のお寺をお預かりしております。 過去の経験から、僧侶が聴聞の方々に一方的に話すだけの法話スタイルに疑問を感じ、悩んでる人・苦しんでいる人・勿論そうではないチョット仏教に興味がある人のお話しを聞き、対話する中でより良い方向を一緒に探す事を重要視しています。 お気軽にご相談下さい。

形見として

Uこさん、こんにちは。
徳島県の法話と天井絵の寺、觀音寺 中村太釈です。

遺骨をペダントなどに納めて供養する手元供養は、近年様々な形のものが発売されています。ファショナブルなものから、据え置きを前提にしているものまでいろいろです。

遺骨ペンダントは形見を持つという意味で考えてください。故人に対する思いがこもっているので大切にして差し上げたらいいと思います。

遺骨ペンダントを落としてしまったら、持ち主はショックでしょうね。形見をなくしてしまうのですから。中身が流出しても問題ないと思います。骨は炭酸カルシウムですから。

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有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

故人を個人のものにしないため

以下は、空想の話。仮の話でごんす。
あなたがお母さんであるとします。
お子さんが男の子だったとします。
お子さんが亡くなってしまって、お嫁さんが「ペンダントにしたい」と言ったとします。
お母さんとしての心情はいかばかりでしょうか。
拝むにしてもお嫁さんの胸元を拝むのでしょうか。
お子さんのクラスメートがお墓参りしたいとやってきました。
ご遺骨が…、「え?無い?」
「散骨しちゃった?」
「ペンダントにしちゃった?」
なんとなく変な感じがしませんか?
その後、嫁さんが亡くなりました。
「え?ペンダントが見つからない?」
何となく変な感じが生まれませんか?
人は誰のものでもありません。
弔うにしても、しかるべきあり方があるのです。
仏教は「わたくし」をしない宗教と言えます。
戒名なんかいらん、オレの名前で結構。
戒名は自分でつける。
遺骨はペンダントに!海に撒く!漁師に文句言われても海に撒く!
何となく変な感じがしませんか?
何となくでいいので感じ取ってみてください。
決してペンダントがいけない、散骨がいけないというわけではありません。
ちょっと考えて頂ければ、のちのちいろいろなことが出てまいりますので、たんげ的には、猛反対なだけです。(^。^)ご随意に。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

養法寺 大熊範隆 様
アドバイスありがとうございます。
手元供養と言う言葉をはじめて知りました。遺骨は故人そのものでは無いのですねT_T
少し考えます。
お忙しいところありがとうございます。

觀音寺 中村太釈 様
アドバイスありがとうございます。
形見という思いで持って下さいとの事。
少し考えが変わりました。
そうか〜形見か...
お忙しいところありがとうございます。

安穏寺 (天岑寺) 丹下 覚元 様
故人を個人のものにしない...
自然に弔うのが良さそうですね。
タレを塗らずにそのままに(^^;;
ありがとうございます。

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