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強い我と自己肯定感が欲しい

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はじめまして。初質問です。

父は11歳の時になくなり、母子家庭です。母親は他の男性と同棲するために他県で住んでいましたが、別れて3ヶ月ほど前から私と妹と一緒に住んでいます。
母親がここ最近休みの度に誰かと遊びに行き、帰ってきません。明らかに不自然で、他に恋人がいることは明白です。
娘である私に母はいつも何も言ってくれませんし、私が問い詰めると癇癪を起こして暴れ回るか、しらを切り通すかだけです。怖いので、母親が何をしているのか全く分かりません。

ただこれだけのことで、何故か心がもやもやし、泣いてしまいます。成人もしているのに恥ずかしいと思います。そして、自分の感受性の強さに嫌気がさします。
自分が何かされた訳じゃないのに、ただただ悲しい気持ちになります。
もっと自分を強く持って、自分に関係ないことには揺さぶられない強い心が欲しいです。

もう一つ、気にしていることがあります。
二ヶ月ほど前、母に、『私はお前の父親に騙されたんだ』と怒鳴られたことがありました。この言葉がずっと引っかかっていて、自己肯定感が失われる時があります。
私は父親がとても好きでした。父の血が入ってることを誇りに思っています。
けれども、母にこの言葉をぶつけられ、自分は母にとったら騙された人間の遺伝子が入っている人間だし、私の存在って、何だ?望まれていないんじゃないか?生きていても良いのか?と考えてしまいます。自分の体は両親の血が混じってちゃんと生きているのに、生きることを否定されているような気分になります。うまく言えないのですが…

どうして私は存在しているのでしょうか。生きていても良いのでしょうか。

以上2つをまとめると、
・自分の感受性が強すぎるのをなんとかしたい(些細なことで泣くのをやめたい)
・どうして人間は生まれてきたのか。このために人間は生まれてきているのだから、あなたは生きていていいんだと言って欲しいです。

自己肯定感を安定させたいです。どうぞよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

かぁちゃんという女からの卒業

あなたには精神的に出家をすることをお勧めします。
この世の人間はお釈迦様もキリスト様もあなたもみんな母親から生まれてきました。
生物的に、生命的に、こどもは母親という存在を何らかの形で慕うようにできているのです。
ところが母ちゃんが子供を愛する愛情の少ない強烈なチャバチャバなかぁちゃんであると、子供としては愛されたくてもその母親が自分のありかたを「母親」ではなく「女」としての自分を選択するのです。
過去において愛情に裏切られた女性は代償として自分を女性として扱ってくれる愛情を求めてパタパタと旅立ちます。母親はそこの幼児性を子供には一番指摘されたくないから暴れるのです。
これは別にあなたのお母さんのことではありません。世の中の男女関係というものです。
あなたはしばらく母親から距離を置いた方がいいでしょう。
お母さんはまだまだ満たされがないのです。
あなたはお母さんとは別にもっと素敵な男性を探してください。
そして、自分自身の人間性を高める道を歩んでください。
仏教というものは苦しいことが無くなる道です。
家族・家庭というものは「自分たちルール」のたまり場です。
2人でも家族、3人でも家族。
家族・家庭・家のルールはそのいえっで一番力の強いものがルールになります。
あなたはだからこそ精神的に独立するべきなのです。
お母さんの今の人間性ではあなたは悲しいことが続くことでしょう。
あなたとしてはまず母親に対して高い人間性を要求しないことです。
かぁちゃんはかぁちゃんで可哀そうな人なのです。
お父さんとの間で何かお母さんにとって思い通りにならなくなったことがあるのでしょう。
でもそれはお母さんの問題です。
あなたの自己肯定感とは関係ありません。
あなたの苦しみの原因は物事に対して自分が近づき過ぎていることです。
相手や言われたことをすぐに自分に引き寄せて接触すれすれ0・003ミリぐらい近づきすぎているのです。もっと距離を取りましょう。
苦しい人間関係は高速道路だと思いましょう。
車間距離を上手に取って「わたくし」し過ぎないことが大切です。
例:相撲のいじめ事件でも近づきすぎると自分のいじめられた経験とリンクしてしまって、無駄に苦しむことがある。それはそれ。自分の今は自分の今。すべてと独立して自由な存在なのです。お母さんとうまくやれる距離感をみつけましょう。🚙 💕 🚗

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
母は、『母親』ではなく『女』として生きている、という考え方に本当に衝撃を受けました。私が、『女』として生きている母に『母親』像を押し付けてしまっていたのだと反省しました。
また、私が自分から物事にスレスレに近づきすぎてしまっていると考えたことがなく、冷静に自分を見直すことができました。
私自身に欠陥があることに気付かず、むやみやたらに傷付いていました。自省し、独立します。強く生きます。
本当にありがとうございます。

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