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座禅はどんなポーズでもできますか?

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座禅はどんなポーズでもできますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの言う坐禅とは何か?

まずあなたの言う所の❝坐禅❞が、どういうものであるかを観る必要があります。
世間やそこらで言われる坐禅というものは「座禅」といいわれるものなのです。
字からして間違っているのです。
ホントの坐禅はオスワリする「座」ではないのです。(^<^)
座って黙りこくるような事、精神統一、集中、カラッポの無心になる、精神鍛錬…、
こういったことは、本当は「坐」禅ではありません。
日本人の9割以上が間違っています。
❝禅定❞のことを坐禅というのです。オスワリすることではありません。
悟りの中身が坐禅なのです。
よって、ポーズは関係ありません。
「外一切の善悪の境界において心念起こらざるを名づけて坐と為す。
内、自性を観て動ぜざるを名づけて禅と為す。」(六祖檀経)
よって、ポーズ云々ではありません。
仮に坊主が屏風に上手に坐禅でないポーズで坐禅のポーズの坊主とJAWSの絵を描いたとしても、描いている時の心のありようが❝坐❞であり❝禅❞であれば、それは❝禅定なる筆の運び❞でしょう。
心乱れた筆の走らせは、絵、描きが乱れます。
「そういう絵は、いい絵と言えますか?イイエ、いい絵ではありません。」ってどっちやねん。

パタンジャリのヨーガ・スートラでも、心が死滅(静止 寂静)していれば、何をしていてもヨーガをしていることに他ならないと解いています。

マインドフルネス、ヴィパサナ瞑想でも、歩く瞑想、坐る瞑想、食べる瞑想、行う瞑想、とあります。
座ることばかりが瞑想ではありません。

では、大切なことは何か。
禅ということを本当にする必要があります。
ヨーガという状態がどういうことかを知る必要があります。
マインドフルネス、ヴィパサナ、瞑想という事が❝いかなる心のありようであるか❞を先に知る必要があると思いませんか?(´◉◞౪◟◉)
それを知れば、ポーズが何だとか、生活の全てが坐禅とか言う言葉は絶対に言わなくなるのですよ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

できると思います。

坐禅は、座ることだけではない、普段の生活も坐禅だと言われています。食事、風呂、トイレ、運動、読書、音楽鑑賞・・・すべて、そのときそこに向かい、その状況を受け入れているかどうかが大切です。坐禅とはそうした今に生きること、そこに徹すること、自分の考えを加えないことです。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

わかりました。ポーズは関係無いんですね。
トイレで頑張ってても、ベッドでゴロゴロしながらでも坐禅ははできるのですね。

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