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他人が怖い・気持ち悪い

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有り難し有り難し 31

こんにちは。ご相談したい内容は2つです。

1つ目は、他人が怖くて信じられないこと。
これは過去のある出来事が起因していると考えています。
ある出来事とは、仲が良いと思っていた1人の友人に2年近く隠し事をされ、私以外の人たちは全員そのことを知っていたのに私にだけ知らせてくれていなかった時のことです。私はその友人に心からぶつかり、熱く本心を打ち明けていたのに、その間友人は私の気持ちは受け流し、私の想いを受け止めているフリだけしていた。真実を知ったとき、私は『ああ、他人に期待をしたって、それはただの自己満足で、相手はちっとも私を見てくれていないんだ』と思ってしまい、それ以降他人に自分の気持ちをさらけ出すのが怖くなり、他人を信じられなくなってしまいました。

2つ目は、他人を気持ち悪く感じてしまうこと。異性同性関係なくです。例えば、目を見て話すとき、5秒以上その人の目を見ていられません。恥ずかしいのではなく、気持ち悪いのです。他人の顔のつくりや、筋肉の動き方を目の当たりにするのが、とても気持ち悪いのです。このことがあるために、長い間恋人もいませんし、好きな人すら出来ません。(全ての他人が気持ち悪いだけではなく、ちゃんと目を見て話せたり、恋とはいかなくとも好意を持っている他人もいます。そういう人には私から積極的に話しかけるようにしています。)

以上のことがあり、平日休日問わず普段から1人でしか行動していません。でも、1人でしか生活していないと、自分の存在価値がわからなくなるときがあります。他人に認められたい、認められて自分の価値を知りたい・感じたい、でも怖いし気持ち悪い…。
現在社会人1年目ですが、仕事以外の時間はこのようなことばかり考えてしまっています。

もっと楽に生きられるように、他を簡単に捉えられるように、どうかアドバイスをいただけないでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気持ち悪いと思うのは考えの方でやっている

そりゃ、人間、あっちゃこっちゃ筋肉もあります。
筋肉があるからこそ笑顔にもなれます。ご飯も食べられます。会話もできるのです。
筋肉が無ければ表情すらあらわれないかもしれません。
オハヨー( ゚Д゚)(゜o゜)オハヨー

あなたはホントーには人の顔をまだ見られていないのです。
思っている方を相手にしているのです。
顔を見た後から想起された方を相手にしている。
それは相手の顔を本当にみているわけではないのです。
たとえば不倫などで文春砲を浴びた芸能人をみるのに常に不倫をした人間だ、不倫をした人間だ、と見続けていくようなものです。
たとえゲスの極み乙女のボーカルさんだって今もまだ不倫をしている訳ではありません。
本人は世間が思っていることとまるで違う行動をしているものです。
禅では非思量といいまして、思いを離れた生活を重んじます。
あまり言いたくないのですが、私は坐禅を通してある虫が苦手だったのですが、触れるようになりました。
最初は、エビエビエビだ。これはエビだエビだエビなんだ、と思いながら思いをだましながら捕まえるようにしていました。
すると、素ででも掴めるようになりました。
何度もやってみました。
すると、別にその虫は刺すわけではないので手で捕まえるくらいは平気になってきたのです。
確かに結構マジックポイントは消耗しますが、心を強く持つとさほど問題ではありません。もちろん触った後はよく手を洗いますが。
子供前でもやってみせました。
「すごい!お父ちゃんすごい!」
これが坐禅の力です。
考えに騙されなくなのです。
かくして私は数十年来苦手だったあのキモい虫を触れるようになったのです。
もちろん別に好き好んで触りはしません。
思いに騙されなくなると、自由自在な力が発揮されてリミッターも外れて人生をフル稼働で生きることができるということです。
ただしひとつ困ったことが起こりました。
「お父ちゃん!ゴキブリがでた!ゴキブリがでた!」
子供たちは私が捕まえるものだと思ってしまっているところです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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