回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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中道
六師外道で言うなら確かにお釈迦さまはアジタの唯物論を否定していますが、同時にパクダ・カッチャーヤナの霊魂不滅説も否定しています。
パクダは「この世界は地、水、火、風、苦、楽、霊魂の七元素で成り立っている」と主張しました。お釈迦さまはこれに「地、水、火、風の四元素(仏教ではこれに空を加えることもある)」と反論しました。
そしてその上でお弟子さんに「アーナンダよ、来世が無いと言えばアジタと同じ断見外道になってしまう。来世が有ると言えばパクダと同じ定見外道になってしまう。私はどちらでもない。『中道』だ。」とはっきり宣言なさっています。
この中道説は仏教徒なら確実に押さえておかねばならない超重要ワードです。入門して一番最初のテストに出るくらいの勢いです。
では中道とは何か?単純に間を取れば良いという話ではありません。お釈迦さまは有るか無いかという二元論そのものを放り投げ、『縁起説』というまったく別の切り口で心の平穏を求めなさいと説きました。
どの宗派の思想もこの縁起説を独自の表現で言い換え、それぞれの症状に応じた修行法に落とし込む形で分派しています。
実際、お釈迦さまは出家したお弟子さんには「来世のことなど考えずに今の修行をしろ!」と叱り飛ばしていますが、同時に一般の人向けには「誠実に生きなさい。そうすれば来世で楽を得るでしょう。」と説きまくっています。
両者は一見矛盾するようで実は「誠実に生きなさい」=「修行しなさい」で繋がっています。ここで誠実に生きろというメッセージで取るか、来世云々というメッセージで取るかでお坊さん各自の仏教への姿勢を読み取ることが出来ます。
話を戻しますが、このようにお釈迦さまが自分目線で語るのではなく、相手の目線に合わせて柔軟に説いたスタンスを、対機説法や応病与薬と言います。嘘も方便としてそうしたというよりは、その姿勢自体が無我の実践の形であり、縁起説の実践の形です。
死にたいほど辛い人生をどうすればいいかと考えるなら、いや、できるだけそうなる少しでも前から、可能なら子供のうちから、お坊さんの法話を聴き、縁起という考え方をフィーリングで学び(縁起説のロジックそのものを勉強しても辛さは消えにくいです)、苦を溜め込まない体質を調えましょう。
実際に亡くなって帰ってきた人はいませんからね。わかりません。
仏教徒としての修行に死後の事は関係ありません。一日一日を大切に生きましょう。
その質問についてはお釈迦さまの「毒矢のたとえ」が有名です。調べてみましょう。
また「前世」の因縁で現在の幸/不幸があるという考え方は差別を助長します。ご注意下さい。
仏教の答えは「ある」
優譽と申します。僭越ながら一言申させていただきます。
浅学ではありますが、私の知る上での答えは、「仏教の考えには後世はある」
お釈迦様が悟りを開かれる前に出会われた、六人の道に外れた師匠(六師外道)について伝わっています。これはお釈迦様の歴史的な意味付ではなく、仏教は六人の教えとは離れているという事を伝える為でありましょう。
その六人の中のお一人の「阿耆多翅舎欽婆羅」という方は、地水火風の4元素がすべてであると説きました。要するに、この世にあるものだけが全てという唯物論。過去も未来の世もない。この世での行いがどうあろうと、どうせ命は消えるだけ。だから、今を楽しく生きようという快楽主義でもありました。
お釈迦様はこれを外道として否定しています。
また、魂の存在も否定しています。
要するに無意識なるものが輪廻するという考え。
そこには縁起が絡んできます。
但し、私達には来世の姿など見えないですし過去の世界も見えない。
そんな事に目を向けるよりも今修行する事を強く勧めています。
「論理の言葉」(モークシャーカラグプタ大師)
伝法寺隼人様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教において、弁証法によって論理的に輪廻について証明するための論証(推論)を少し紹介させて頂きましょう。
心というものはすべて、次の瞬間の心と結びつくものである、たとえば現在の心のように。(必然性)
死ぬときの心も、心にかわりない。(所属性)
(だから、死ぬときの心は、次の瞬間、すなわち、次生のはじめの心と結びつく。)(結論)
・・
(各瞬間の)心は、もう一つの、それに先立つ(瞬間の)心から生じる。たとえば、現在の瞬間の心がそうであるように。(必然性)
誕生の瞬間における心も、心にかわりはない。(所属性)
(ゆえに、誕生の心は前生の心より生じる。)(結論)
論証参照・・「論理の言葉」(モークシャーカラグプタ大師・梶山雄一先生訳注)中公文庫 p126-127
・・
今の心は、一瞬前の心から生じている。その一瞬前の心がなければ、今の心はあり得ない。そこから、前世における心が無ければ、今世においての心も生じない、つまり、今世の心があるならば、その心は、来世の心にも通じることになるということであります。
ここから、死後、存続する心、心相続はありうるものだと推論することができます。
この「論理の言葉」は、仏教論理学・認識論を学ぶ上でもかなり重要な視座が散りばめられています。是非、古書しか取り扱いはありませんが、研究書としてお求めになられて、参考になさられて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。とてもためになりました。