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自分の発言で人を傷つけてしまいます

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有り難し有り難し 46

よく自分の発言で人を傷つけてしまいます。
私自身その時には悪気はないんですが、家に帰って落ち着いて考えてみると、酷いことを言ってしまったなとすごく後悔することがよくあります。

先日も友人がかつて私が好きで叶わなかった相手とお付き合いすることになり、『付き合う相手があなたじゃなかったらよかったのに、最悪。』と言ってしまい、相手を深く傷つけてしまいました。

その2日後に「あの時は酷いことを言ってごめんね。」と謝罪のメールをして許してもらいましたが、こんなことばかりしてしまう自分にもう嫌気がさし、いっそ死んでしまいたいとまで思うようになってしまいました。

言葉は時に人を酷く傷つけてしまう凶器にもなってしまうことは重々承知なのですが、
頭に血が上ってしまうといつも何も考えず、思いついたまま発言してしまうのです。
このまま人を傷つけてしまうのなら、いっそ誰とも関わらずに生きていきたいとも思うのですが、そうもいきません。

私のことを一番近くで支えてくれ、理解してくれる旦那様さえも、私の発言で深く傷つけてしまい、先日も『悪気ないのはわかっているけど、さすがに傷ついたよ』と、言われてこの3日ほど口を聞いてくれなくなりました。

もうどうしたらいいのかわからなくなり、人と関わるのが嫌になってしまいました。
以前は教師をしており、人と関わるのがとても好きだったのですが、辞めてしまい今は専業主婦で極力、人と関わらないように生活するようになってしまいました。

本当に疲れてしまい、自分が大嫌いです。
どうしたらいいのかご教授ください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ことばに刃なく無く、毒無きことを覚るべし

先日、小学校の授業参観で先生が「チクチク言葉」と「ふわふわ言葉」の違いを教えていました。とても分かりやすく勉強になりました。
相手にとってとげになるようなチクチクした言葉を控えて、マシュマロほわほわな、やはらかなる言葉を使うように心がけるようにいたしましょう。
そうすれば「人を傷ける言葉だけは言わない。」「感情的にならない。」
これだけ十分でしょう。
あまり難しく考えすぎないことです。
極端なたとえですが裁判官が被告人に死刑を宣告しても「あー、オレ殺しちゃった。凹むわー。」ということがあったら、仕事になりません。いうべきことは言わなければいけません。
学校の先生も、警察官も言うべきこと、正すべきことをただし、伝えなければよくなるものもよくなりません。
友人であっても夫婦であっても、仲良くなりすぎて遠慮が無くなると礼節をかくものです。
親しき中にも礼儀あり。私もワイフに対しては地雷を踏まぬように深い禅譲の中にあって言葉を選択しています。
私もこれをお伝えする上であなたが傷つくから、あなたが凹むから、と迷っていては何も言えません。
今から申し上げることも含め、あなたがかつ売上て何かを言って相手が傷ついたということも、一番の問題はあなたがアウトプットする言葉に今、引っかかってしまっているということです。それは迷いとい
うべきもの。 
言葉もパンチも公(おおやけ)においては善悪も良し悪しもありません。
私の祖父が育てていたボクサー矢吹Joeという選手がいました。力石トールさんという選手の壮絶な打ち合いの元、力石選手はリング上で仏になりました。👼
それ以来ジョー矢吹選手はあなたと同じく言葉のパンチをボクサーでありながらも相手の顔面に打てなくなりました。
言葉のパンチを繰り出す時、そこに一瞬の迷いが生じてしまうになったのです。
ですが、矢吹さんは本当はボクシングが大好きだったのです。
ルールや縛られ無しに本当にボクシングを楽しめる相手に出会ってから自分自身を開放できるようになったと祖父※から伺っております。※丹下段平
あなたも同じように、人とお話しすることそれ自体を嫌いになったわけではないはずです。
もしそうだとしたら、ここにすら来ません。
お寺にお越しいただき、いいたいことを思いきって言ってみましょう。
あなたに必要な言葉があります。
それが何であるかを求めに来てください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ふわふわ言葉と、チクチク言葉。
教師をしていた時に一度、私も子どもに話したことがあったなと思い出しました。
話す前に一度深呼吸するなり、唾を飲むなり、
一度落ち着いてから話すよう、心がけていこうと思います。
今はとてもこの件で落ち込んでいますが、少し落ち着いたらお寺へ伺いたいと思います。
ありがとうございました。

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