hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

結婚について。

回答数回答 2
有り難し有り難し 22

傳法灌頂を終え、自宅へ帰って来た辺りから檀家さんに、いつ結婚するかなどを顔を会わせる度に聞いてくる方がいます。
此方は結婚願望はあるのですが、正直 出会いはありません。
檀家さんの関係者と付き合って別れた場合は仕事先の寺で働き続けるのは気まずいです。かと言って、今迄の友人と結婚は正直考えられません。
友人から紹介されても時間が合わない(主に土日祝日)・葬儀などで直前にキャンセル、休日返上などで毎回付き合うまでいきません。

要約しますと、出会いが殆どないうえ、付き合うまでいきません。
転職した方がいいでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もうちょい仏道を究めましょう

坊さんは、職業としてやっていると資格や経験ばかりを重宝します。
「お遍路さんにいって帰って来た途端に夫婦ケンカ」という方がおられたそうです。
それは、仏道をやっていなかったのです。
はたから見れば立派な修行をされているように❝見受けられる❞。
ところが本人の人生の中の怒りやら、自分中心目線やら、苦しみが何も解決されていない。
それであるといくら坊さんと言えど、何年修行してきたと言えど仏法としての❝力❞にならない。
私は僧堂で坐禅をしてきてそこの矛盾に向き合い、修行をし直しました。
キャリアやら年数、何をしてきた、という仏道修行のアクセサリーを全部外して、素の人間として、怒りや苦しみ、心の闇に向き合わなかったら本当の仏道修行は始まりませんから。
もう少し、そこのあたりを深めてみてはいかがでしょう。
あなたが❝ぐらつかなくなれ❞ば、本当に芯のある坊さんになれるからです。
禅宗でもすぐに色袈裟つけたがる人は多いです。半年から一年半で資格は取れます。が、所詮ペーパードライバーはペーパードライバーなのです。そこに真摯に向き合うことが仏法の為、自らが安楽の為なのです。是非、結婚前に坊さんとしての本道を究めて「わたくし」を乗り越えてみてください。もっと素晴らしい出逢いがあるでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

その先に云いたいこと

人間、さまざまな思いを持って、相手に話しかけます。しかしその総体は、語り尽くせるものではありません。密教をお伝えになる方にとっては、釈迦に説法でしょうが。
ただ、あなたより長く生きてきた、お寺で暮らしてきたことから、少々お伝えさせてください。
お檀家さんがあなたに、結婚について問う。あるいは急かす。その方が願っている事は何でしょうか。つまり、「あなたが結婚する事を通して」どんな事を求めているのでしょうか?その「隠された、言葉にしなかった願い」をあなたが気づき、それに至る道程を考えた時、いまあなたに具体的にできる事は何でしょうか。問われたから、請われたからといって、イエスノーだけで答える必要はありません。「私としては、このように進んでいきたいと考えております」が言えれば、問うた方にとっても、「そういうステップがあるのだ」と、気づきをもたらす可能性もあります。先ずは、伝えられた法を味わい、使ってみてはいかがですか。

ともあれ、厳しい事を一つ書かせていただきます。
伝法灌頂を受けててすぐに、「やめようか」などという言葉が出てくるようでは、法を伝えてきた皆様も落胆されるでしょう。あなたが受けたものは、そんな軽いものではないはずです。
と思ったら、一つ裏技を思いつきました。
先ず僧侶を辞めるか兼職する。で彼女とか結婚相手を探し、見つけ、結婚する。で、子どもを授かってから、改めてお寺に入る。できない道ではありませんぜ。

{{count}}
有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ