人間とは何か
私は色々なことでしつこく3年程悩んでいた結果辿り着いた疑問が「そもそも人間がいる意味は何」でした。
母親がスピリチュアルに興味があり、質問したら色々と答えてくれたのですが、それはスピリチュアル界隈での考えであって結局本当のことなのかは分かりませんでした。それが本当なのか人間を落ち着かせるためのつくりものなのか分かりませんが。
答えを誰も分かるわけがないのは分かっていますが、とりあえずいろんな人に聞いてみました。でも「修行」とか「やりたいことを見つけるため」とかそういう回答ばかりでした。1回死んでみたら分かるんじゃないかと思いましたが中途半端に生き返るのが嫌なのでやめました。でも人間の存在に意味が無いなら手っ取り早く死にたいと思っています。平和故にうまれたこの考えは人間にとって必要な考えなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人間→私
「そもそも人間がいる意味は何」
これは誰もが一度は考える問いかもしれませんね。
この問いが必要かどうか。それはただ生きるためには必要ではないかもしれません。この問いをごまかしながらでも生きることは可能でしょう。しかし本当に満足して生きる場合、この問いに対し何らかの答えを自分の中で見出すことはとても重要なことではないでしょうか。
この問いを問うにあたり、「人間」を「私」に置き換えて、我が事として問うた方がより考えやすいと思います。
「私がいる意味」
です。
この問いの問い方には
・私とは何か
・意味とは何か
・なぜ意味を求めるのか
・「いる」とはどういうことか
など様々な切り口があります。しかしどの切り口から問うたとしてもその答えは人から教えられるものではないのでしょう。どんなに教えてもらったとしても、自分がその状態になっていないと、あるいはなったことがないと、あなたの中で本当の頷きは得られないでしょうから。
それが頭の理解と、この身全身での理解の違いです。
参考に私が最近、または以前に読んだ書籍でヒントになるかな?と思うものを挙げときます。
①漫画「君たちはどう生きるか」 原作 吉野源三郎 漫画 羽賀翔一 マガジンハウス
②「人間とは何か 実存的精神療法」 V.E.フランクル 春秋社
③「生きる意味への問い V.E.フランクルをめぐって」 山田邦男 佼成出版社
④「縁起に生きる」 小川一乗 法蔵館
ご参考まで。
沢山の考えに触れてください。そして沢山の事を経験してください。心を開いて多くのものに出会ってください。
出会いの事実の中で、知識ではなく体験理解としてあなたのその問いが満足することを願っています。
追記
この問いも大事だけど、あなたが「色々なことでしつこく3年程悩んでいた」ということ、そして「死にたい」と思うことも見過ごせません。
よかったらまた質問してくださいね。お待ちしています。
仏教を勉強しましょう!
そちあさん、こんにちは。
素晴らしい疑問ですね。私も中学校の頃に思いました。
その答えは仏教にありましたよ。ただし答えを知るのと答えを身につけるのは別です。もう答えはお釈迦様が説かれていますので是非仏教を勉強してみてください。そして修行とはその答えを身に付けることです。これは1,2年勉強したぐらいでは無理です。10年、20年、あるいは一生、あるいは来世までかけて努力する必要があります。
悩んでいる暇はないのですよ。仏教を理解するには勉強が必要です。今から一所懸命勉強して学力を身に付けて、大学、できれば仏教の大学に進んで、その問題をクリアしてくださいね。
応援しています。がんばって!合掌
恐竜
そちあ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
最近、下の子が恐竜に興味を持ち、私も興味を持って恐竜のことを調べていけばいくほどに、何億年もの間に、進化しつつに繁栄したものの、やがて絶滅してしまって、何か存在していた意味や理由や価値があったのかな・・と、ふと思ってしまったことがありました。
しかし、彼らは彼らとして精一杯に生きていたことは事実として、化石などからそれが分かることだけでも、何か凄いなー、と感動して思うところでありました。
もちろん、同じ事実でも、興味のないものにとっては、全く感動も何もないものにもなるのですが・・
まあ、存在の意味や理由や価値というものは、相対的なものであり、絶対的に「これだ」と決定して言えるようなものはないものとなります。
人間の存在の意味や理由や価値というものも同様に、絶対的なものではなく、仏教的に申せば、「縁起にして空なるもの」ということになります。
「縁起」とは、他に縁りて起こるということで、簡単には、因縁(原因と条件)によって成り立っているということになります、「空」とは、そのものがそのもの自体において独立自存として、実体的には成り立っていないということを申します。
まあ、因縁次第とて、善い因縁によれば善い意味や理由や価値となり、悪い因縁によれば悪い意味や理由や価値になるとして、できる限り善い因縁に努めることで、善いものとして参りたいものとなります。
また、更には、もしも同じような因縁を共有していたとしても、人それぞれの捉え方でも異なってしまうというところもございます。
例えば、「一水四見」として、同じ水を見ていたとしても、私たち人間にとっては、当たり前のような「水」であっても、天人にとっては宝石のようなものとして、魚にとっては住処として、餓鬼にとっては火として、とそれぞれで捉え方が異なってしまうものとなります。
あるいは、「手を打てば 鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池」とも言うように、一つの行為でもそれぞれの立場によっては捉え方が異なってしまうのであります。
いずれにせよ、存在の意味や理由や価値というものは、全く「無い」というものではなく、因縁次第ということであります。できれば、善き因縁によりて善き意味や理由や価値をということになります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答していただきありがとうございます。
アドバイスだけでなく書籍まで紹介してくださりありがとうございます。仏教の道も考えてみようと思いました。
お忙しい中本当にありがとうございました。