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複雑な義両親への挨拶

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有り難し有り難し 8

現在20歳、妊娠7ヶ月の専業主婦です。

今年の1月に結婚しました。
その時旦那と旦那の両親はほぼ絶縁状態でした。
結婚しようと思っている。と旦那は伝えたが「知るか、勝手にしろ」とだけ言って終了。

それから数ヶ月後、いきなり義両親から「挨拶も顔合わせも無しに結婚なんかして」と連絡が。
義父は突っぱねていて未だに会っておらず、義母と義祖母にだけ挨拶しました。
義祖父は離婚しその後再婚して、更には頑固だから挨拶になんか行かなくていいと義母に言われました。

そして今月、その義祖父が亡くなりました。
亡くなった当日に嫁も来いと言われ、そこには未だに会っていない義父もいるとのこと。
悩みましたが覚悟を決めて行く支度をし、待機していたら「嫁は来なくていい」といきなり電話が入り旦那だけ出掛けていきました。

訳が分からずもやもやしたまま次の日、またいきなり電話が入り「今週末に葬式とお通夜あるから嫁も来い」と言われました。
その次に出た言葉は「これが私達とこれからうまくやっていける最後のチャンス。いいきっかけでしょ?」です。
耳を疑いました。

振り回されてもう嫌です。
つい昨日まで来いと言ったにも関わらず準備が終わってからやっぱり来るなと言われ…。
上手くやっていこうなんて微塵も思えません。

元はあちらから会うことを拒否してきたのに今更こんな事になって訳が分からないのに、何故そんなことを言われなくてはいけないのか。
妊娠中だというのにストレスで本当につらいです。子宮辺りがキリキリして痛いです…お腹の子に影響がなければいいのだけれど。

私はお葬式に出て、「挨拶が遅れてしまいすみませんでした」と義両親(義父)に頭を下げるべきなんですか?
お葬式にもお通夜にも行きたくなければ、義両親とこれからやっていこうとも思えません。

表面上だけでもニコニコペコペコするべきなのでしょうか。

相談できる人も頼れる人もいなくつらいです。
どうかアドバイスの方、よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの安産を最優先に。

一つ、大人になるための方法を一つ提示しておきます。
「自分の❝アタシ目線❞だけで物事を評価・判断しない。」
これをすると旦那のストレスもあなたのストレスも減り、安産になります。
名付けて、超オフィシャルゾーンからの俯瞰。
まず、どっちの見方もしない目線で達観してみましょう。
あちらさんとしても文字通り複雑な心境なのでしょう。
私の個人データによりますと、死語ですが「お嫁さんとシュート・シュートメ」とは出発時点では基本的に天敵です。仲悪くて当然が仏教の説く真理くらい軽く真理です。(笑)
要はデータ不足と会話不足、理解不足なのです。
第三者の私から勝手な意見を申し上げます。
あ…シンクロしました…。

何?結婚?お前はまだまだ働き盛りで…、人生の経済的安定も築き上げる前から…、
何?父が亡くなった?え?
何?息子の結婚相手が通夜葬儀に?まだ挨拶もろくにしていないのに?
連れて来たら?でも、負担かけて流産でもしたら…、
あー!やっぱり安静にしていてもらおう。え?怒ってる?
あー、もう、ボク(義父)もうムリー。いっぱいいっぱい。誰か助けてー!

…あ、どうやら、あなたの天敵、義理のパパにシンクロしちゃいました。
なんだか、結局、義理のパパも色々大変みたいっすね。
こう考えましょう。
人生、毎日何でも間でも初体験。
相手だって、人生初の息子の結婚、出産、父親の死で「あわわ」テンパリ―なのです。
私も息子が二十歳くらいの人を妊娠…?え?順番が…??あわわ…相手の親になんて言ったら…軽く一瞬世界があしたのジョーくらい真っ白になるのが父親の心理ということを3グラムくらいご理解ください。
世の息子を持つ父親母親というのは、とにかく単純に考えてわが子がかわいくてしょうがないのです。心の準備もなしに急に「へ?結婚?(゜o゜:)」でビックラピョコピーなのだと思ってあげましょう。安産の為にも義理の父母にはあだ名をつけましょう。
仮によしお・よしこならば「よしモン」「よしニャン」「よしポン」と名付けて、精神的に負担を軽くしましょう。敵にするとお腹の子供もおじいちゃんおばあちゃんとケンカしないでバブ―、と苦しみになりますから百歩譲って「200年後に仲直りする」くらいの姿勢でいることです。しばらくは、あなたの安産を最優先に。
いずれ手紙を書いて送るのも良いでしょう。
その際はまた、ご相談だ下さい。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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