hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

職場の人間関係が上手くいかない

回答数回答 1
有り難し有り難し 24

私は今現在バイトで接客業をしているんですが、そこの人間関係でトラブルがありました。
私より少し年上の30歳くらいの元社員の女性なんですが、以前別の店舗で働いていて一度職場を退職され、今現在私の働く店舗でパートとしてまた帰って来て働いているんですが…私が同じパートさんやバイトさんに頼むようなことを頼むと元社員の私にその仕事やらせる?みたいなことをボソッと言います。しかも上下関係を気にする方で自分より後に入った方には先輩面を凄くします。
なのでボソッと言ったセリフを聞いて私は「昔は社員だったか知りませんが、あなたは今私と同じパートですよね?それに上下関係を気にするならあなたより前に入っている私は先輩ですけど?昔のことにすがってブツブツ言うなら社員にでも戻ればいいんじゃないですか?その態度じゃ反感を買うと思いますけど」と言いました。別に怒ってるわけでもなく、間違ったことを言っているので指摘しただけなのですが…相手は凄く怒って仕事中でも無視されるようになりました。
なので「仕事ですよ?私情を持ち込まないで、あとあからさまに態度に出すのもプライベートなら別にいいですけど、仕事中はどうかと思います。接客業ですから」と注意するとさりげなく嫌がらせされたり、よけいに冷たい態度をとられるようになりました…
間違った事を間違っていると言っただけなのに…昔からよくやってしまうんですが、私は間違っていると思ったことは間違っていると相手にすぐ言ってしまいます。私の中で正論だと思うことを言ってしまうんですが、別に自分の考えの押し付けではなく、私の言ったことが間違っているなら言い返して指摘して欲しいし、指摘されたら私も違う考え方に気づかされるかもしれないので有難いです。
ですが今回は相手の態度があまりにも酷いので少し不安になりました。私が間違っているのでしょうか?相手に考えを直してもらう方法等はないか教えていただけると助かります。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

正しいをも超えて「正しさ」を正していってください

素晴らしいですね。「スカッとTV」に取り上げてもらいたいくらいです。
あなたのやっていることは本当に「正しい」ことです。
グレイト。立派です。みんな言いたくても言えない人ばかりの世の中にあって、すばらしいです。拍手。
めったに丹下は褒めませんから本当です。
おかしいことをおかしいと言って現場を良くしてくださるあなたの姿勢は実に素晴らしいと思いますし、そういう人が増えていっていただきませんと世の中は良くなりませんから、応援いたします。
私もかつて修行道場時代にある先輩僧侶が後輩をこき使ったり、いじめていたので、朝の会議で「後輩をいじめるたりこき使うのをやめてください」とガツンと言ったことがあります。
するとそのいじめっ子僧侶は「なんでみんなの前でいうんですか?」と困ったように逆切れしてへそを曲げていました。自分が悪いことをやっているのにもかかわらず、人というのはその悪いところを指摘すると、真実に公の場ではないと隠したり、逃げようとしたり、うそをついたり、ごまかそうとするのです。その位、人間は自分が可愛いのでしょう。
その坊さんはその後、修行僧に〇〇〇〇を〇っ〇けたとかで首になりました。悪行は正されるべきものによって正されるものです。
ですが、実はこの「正しい」ということは時として危険な響きを持つことがあります。
こちらは正しいと思ってやっていてものですが、相手が良くなっていかないということは、そのやり方は正しくないということがあるのです。
知人の僧侶のSR師は修行道場時代に大変厳しい姿勢で修行僧に先輩の立場として指導していたそうですが、ある時外国人の尼僧さんから「あなたの言っていることは正しいけどやり方が間違っているわ」と指摘をされたそうです。現実の現場でみんなが賛同しないということは、人間の世界においてはやはり実際の現場にそぐわないというものなのでしょう。
世を正していく、自身を正していく上において、その正しさという考えが本当に正しいかどうかをも知る必要があるのです。
アンパンマンのアンパンチはバイキンマンを殺しません。
ですが、バイキンマンは毎回登場します。本当はどうすればよいのでしょうか。宿題・課題にしてみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ