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死にたいと相談した者です

回答数回答 2
有り難し有り難し 34

なんとか生きております。
ありがとうございます。

会社の人間が腐った人間しかおらず、露骨に嫌がらせをしたりする大人しかおりません。
それに傷ついて、ストレスで倒れてしまう自分も悔しいです。

このような大人にしかこの社会を生き抜くことは出来ないのですか?

どうして、私は他人に認めてもらえずに傷ついてしまうのでしょう。
自分のことは自分しか認めてあげられないのに。
自分の芯がしっかりしていれば、自分で自分を認めてあげて、何を言われても気にしなくて済むのに。
私はどうしたらいいんですか。
会社の人間の求める人間になんかなりたくないし、そんな人間にはなれません。

こんな私の未来に希望はありますか。
私が笑える未来は、この会社にいてありますか?未来が見えません。でも、簡単に辞められません。絶望しかありません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

たてごとなしの自分の呼吸に学ぶ

「自分の思いで苦しんでしまうのが人間」だと30回唱えてください。わかるまで。
あなたは世間に対して会社に対して、過去に出会ったお辛かったことの総合データから、何をみても悪いものと判断してしまう傾向があるのかもしれません。
実際、その会社はブラック企業っぽいですから、無理してやらなくていいでしょう。
私だって自分に向かない仕事はできませんしAKBや乃木坂に入ろうと思ってもそりゃ無理というもの。(入りたいんかい)

分かりやすく言いますと、あなたは醤油ラーメンしか食べたことが無いようなものと良いでしょう。
この世には味噌ラーメン、塩ラーメン、とんこつ、魚介、タンタンメン、つけ麺、油そば、汁なしタンタンメン、次郎系、家系、牛スープ系、アサリ系、エビ系、鶏がらオンリーなど、じつに様々な宗派があるものです。(宗派かい)
あなたも時には他のラーメンを味わうべきです。醤油にとどまっている必要はありません。
自分を自分でカスタマイズするには、その一か所だけにとどまっている必要はアラジンです。
私はどちらかというと、四川タンタン宗マーボー丼派です。
ところが現在、胃を患って辛いものが食べられず、絶食宗絶飲派です。
ダカラと医者から出された薬と正露丸しか飲んでません。
自分を認めるにしても、無理に認めようとすれば無理がたたるというもの。
自分ホメホメ派やストレス派に所属せずに、まず「こうでなければいけない」「こうでなければしあわせになれない」という自分のあらかじめのたてごとを無くしてみましょう。
自分のあらかじめのたてごと、ルール、事前設定、事前条件をなくすとよいですよ。
何かをしようとする際に気が乗らない、気が進まない、不安になる人間の心理って「自分のあらかじめの条件付け」に縛られているんです。
👆ここを40回読んでください。
私だってタンタン麺麻婆丼派だったのが、いまや刺激物アウト宗正露丸派です
人生は変わっていくもの。
今自分が乗っている乗り物の乗り心地が悪ければ職場も携帯も電車も乗り換えていいのです。
仏教を学ぶということは一つの乗り換えです。
人生のベース、ダシ、乗り物を根底からチェンジすることです。
人はものの見方をもっています。
そのものの見方そのものが変わるのです。
変わるというより外れるのです。
私というフィルター、タレなしにものを見ることで人は救われるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自分がやるべきことに集中する。
とにかく目の前の業務に集中する。
過去のことや、周りの人の視線は考えない。
ただ今やるべきことに集中する。
目の前にリアルに見えるものに集中する。
手にリアルに触れるものに集中する。
集中することによって、今一瞬一瞬を乗り越えてください。
また、嫌がらせを受けたときは毅然とした態度で、できるだけ大きな声で「やめてください」と注意してください。
人から認めてもらうには長い年月が必要です。
沢山の仕事での実績が必要です。
ですから、人から認めてもらえなくて当たり前なのです。
当たり前のことを悩んでも仕方ありませんよね。
どうして引力があるんだろうと考え悩んでも仕方のないことですよね。
それと同じです。
今日一日やるべきことをやったなら、自分で自分を褒めてあげてください。
美味しいものでも食べたりと自分にご褒美をあげてください。
あなたの周りの人間が腐っている?
人間には色んな一面があります。
喜怒哀楽もあります。
状況によっても、体調によっても変わります。
腐っていない面もきっとあるはず。
そのことも忘れないでくださいね。
人のいい点は真似して、人の悪い点は反面教師として、あんな人にはならないようにしよう、と思いましょうね。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ