hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

子供は親に感謝すべきか

回答数回答 2
有り難し有り難し 46

私は、高校生の時に「誰のおかげで今まで生きてこられたと思ってるんだ」と親から言われたことがあります。とてもショックでした。

それ以来、子供を育てるのは親の当然の義務なのに感謝を強要するのはおかしいのではと思うようになりました。

たしかに子供を育てるのは大変なことです。でもそれは自分たちが望んだことです。ましてや子供は親を選べません。

こんな考えに至る私がおかしいのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まったくもって、おかしくありません

理不尽な想いをされましたね。
人は親になった時から、子供をしっかり育てる義務があります。
「おかげ」というのは責任逃れの言葉としか思えません。

感謝の強要などあり得ないことです。
自分が働けるのなら世話になんかなりたくないよ、と心から叫びたくなりますね。

しかしながら私は「働かざるもの食うべからず」の言葉のもと、小学生の時からお坊さんの仕事をして、家族を支えるため働きました。
昔の感覚では、子供は働き手という概念があったのでしょう。

ただ、今私が思うに無償の愛が欲しかったなと思います。
食うべからずなど言われたくなかったなと思います。

だからせんさんのショックは痛いほど理解できます。

もし将来、お子様を授かられたのであれば、無償の愛をささげて下さい。
また、逆説的な意見となりますが、親御様の事もいつか許していただければと、私は願います。
きっとその許す心が、せんさんの幸福につながると、私は思うからです。

{{count}}
有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

親の都合 VS 子供の都合

人間は親である前にその人間の「個人の都合」が優先させると知っておくとよいでしょう。
あなたとしては親の都合よりも「親として子供のよき理解者・支援者」であってほしいと願う面があると思います。
ですが、親の口らから出てくる言葉は必ずしもこちら側が望む理想的な言動ばかりではありません。
100歩下がって冷静に見つめてみれば、それはあなたの理想、子供側の願い。
子供の都合という面もあるのです。

本当は親の理想は子供を守ることであり、愛情に包んであげるものです。
ですが、愛情というものも人によっては条件付けの愛情である場合もあるのです。
いい子にしていないと愛情をもらえないということも世の親子には多く見受けられるものです。
ぞんざいな言葉、乱暴な言葉が飛ぶということはそれに至ったバックグラウンドが必ずあります。
時々、たまたま、お互いの都合の割り込みによってすれ違っただけだと思ってみてください。

あなたも親の真意、親が本当にわかってもらいたいことよりも自分の都合を優先させている面があるはずです。親としては「あー、何で素直に受け止めてくれないんだ。」という思いもあるのでしょう。
つまり、どちらにもイイタイコトがある。
どちらも投げたい球がある。
どっちもピッチャー図式だからいけないのです。親子の会話はきちんとルールを作ってピッチャーの時はピッチャーに徹する。
キャッチャーの時はキャッチャーに徹するというルールをきちんと作って、会話が成り立つようにする必要があると思います。(我が家ではそれをいまだにやっていただけないのですが)
まずは、自分の都合を無くす。
つぎに、相手に高い人間性を求めない。
そして、あなた自身が冷静な観点を持つ。
そうすることであなたもあなたの感情的な思考に悩まされなくなるでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

海老原学善様、丹下覚元様、ご回答頂きありがとうございました。
親も私と同じ人間であり完璧ではないという考えが私の中に無かったので、はっと気づかされました。今は正直、許せる気にはなれませんが、いつかそうなればいいなと思います。自分が親になった時に同じことをしないように、今よりもっと成熟した人になるために努力していきたいです。

煩悩スッキリコラムまとめ