知的障害について
はじめまして。
近頃モヤモヤとすることが多く、一度お坊様のご意見を伺いたいと思い、こちらへ質問させて頂きました。
知的障害を負った方々についてです。
誤解のないように言いますと、決して「障害者」というくくりで差別をしたい訳でも、排除をしたいと考えている訳でもありません。
ただ、怖いと感じることと、不快に思ってしまうことに対しての悩みです。
わたしは高校時代3年間、通学で利用していた沿線で、ある1人の知的障害の方に怖い思いを抱くことが何度もありました。
そばにピッタリ寄り添われたり、電車を降りてから駅を出るまで走って追いかけられたりという経験があり、親に泣きながら電話をしたり、駅まで迎えに来てもらったこともあります。
途中の駅で降りたり、姿を見かけたら電車に乗らないようにしたりとできるだけ接触がないよう心がけましたが、それでもタイミングが悪く出くわし怯えながら通学したこともあります。
その人は主に若い女性にそのような行動をしていたようで、その沿線を利用する同級生の間では有名な人でしたし、警察の方が話を伺っている場面も見たことがありましたが、今もその沿線を使っていると以前聞きました。
高校卒業後、その沿線を使うことが激減したため怯えることもありませんでしたが、先日通勤中にまた似たような方と乗り合わせ、女子高生が同じような目に合っているところを目撃し、再び高校時代のことを思い出しました。
と同時に今度は、そういった行動をすることや、無関係の人々に危害を加えることに対しての不快感も覚えました。
しかし現在、知的障害を持つ子供たちを育てている方々や、懸命に治療している方々を知る機会も少なからずあるため、そのような思いを抱く自分に対してもモヤモヤとしてしまいます。
ただ、もし親戚家族や知り合いの子たちが同じような目にあったらと考えると、やはり不快感も薄まらず。
赤の他人にここまで不快に感じるのは、人として心が狭いのではとも思ってしまいます。
長々と綴ってしまいましたが、このような思いをどうすればすっきりと収めることができるのか、助言を頂ければと思い質問に至りました。
宜しくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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怒らずに、危険はさける
不快感は、怒りの煩悩です。
怒らずに、危険は回避すればよいのでは?
雨が降ったら傘をさしますよね。
雨に怒らなくても、傘はさせますよね。
そのような感じで、怒りや憎しみはもたず、ただ、身にふりかかる危険には対処すればよいのではないでしょうか。
そもそも「障害者」「健常者」「人間」というような概念は、人間が頭で創作した仮の記号でしょう。
ひとりひとり、一匹一匹が別の生きものです。
いろんな生き者、予想不能な動きをする生きもの、危険な生きものが世の中にはいます。
自分以外の生きものに対して、できるだけ怒らない、しかし危険には対処、でいきましょう。
質問者からのお礼
御回答ありがとうございます。
不快感が怒りの煩悩だという発想が全くなく、わたしは彼らに対し怒っていたのか、とハッとさせられました。
仰る通り、ひとりひとり、一匹一匹が異なる生き物なのだと考えると、少し気が楽になる気がします。
丁寧な御回答、ありがとうございました。