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彼の過去を聞いて

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この間、会話の流れから彼の過去の話を聞きました。
言葉がでないほどの辛い過去でした。

普段あまり自分の事を語らない彼が、隠し事はしたくないからと話してくれてくれた事が嬉しかったのですが、それと同時にこれまで平凡に育ってきた私が彼の側にいていいのだろうかと不安になりました。

これまで彼の支えになれればと思ってきましたが、話を聞いてから、私では彼の辛い気持ちを全部はわかってあげられないことが苦しいです。

彼に、「私ではあなたの辛い気持ちは全部はわかってあげられないけど、あなたの事は大切に思ってるし、これ以上苦労してほしくない」と伝えました。

彼は、「ありがとう。それで普通や」と言ってくれました。
私は今まで通り、彼の側にいてもいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その通りだと思います

相手の気持ちは分からなくて当然。しかしあなたは彼のことが大切。
とても素晴らしいことですね。彼もよくわかってくれているようですね。
とても、良い関係が作れているようです。
過去にどんなことがあっても、今の彼が全てです。
お幸せに。。。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

善き方と出会えましたね。

邦元師の仰るとおりです。
 他人様のご苦労は、誰も「完全に分かる」ことはできません。あなたのしてきた「苦労」も、彼が完全に理解することは、恐らくありません。だから。
 「私の気持ちなんて、あなたには分からないでしょ!」と、「分かって貰う」ことを強要しても、無理なことです。その上で、その上で。それを知った、その上で。「でもあなたのことが大切」。尊いことと存じます。
 何が幸せで、何が苦労か。人によって、違います。人は「いま、私から見るとね…」しか語ることができません。その上で、他者を大切に思う。尊重する。尊いことです。

そして…
お子さんを大切に。貴方が尊敬できる方と一緒になるのは、長い目で見て、お子さんにとっても、きっと良いことに繋がるはずです。

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

それでもあなたに話してくれた

あなたにそれを話したという事はあなたを信頼してくれているのでしょう。
気持ちを全部理解してくれという事ではありません。
自分の辛い過去を話せる相手としてあなたを選んだのです。
今後ももちろん一緒に居ればよいと思います。
その話があまりに重たかったにせよ、それは彼のこと。もう終わったこと。
もし傷がまだあるなら、そこも含めて支えてあげてください。
よろこぶと思いますよ。(^<^)

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
私に話してくれた事に感謝して、彼を大切にしていけたらと思います。

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