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前に進んでいける魔法の言葉ってありますか?

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2017年は本当に色々なことがありました。
自分でも思ってもいないことが起こりました。そして、自分はなんて最低な人間なんだと。自分の愚かさに気付き、猛省し同じことは二度としないと誓い、ちゃんと前を向いて正しい道を進んでいこうと決めました。年が代わり尚更頑張っていこうと思っています。
ですが、過去の自分が許せなくて落ち込みます。頑張っていこうと思ってても、こんな私が何もなかったようにこのまま進んでいいのか心が痛みます。でも、進むしかないと思って、「大丈夫。大丈夫。」と自分に言い聞かせます。それでいいのでしょうか?他の言い聞かせ方、納得のいく言い聞かせる魔法の言葉みたいなのががあれば教えて下さい。随分勝手な質問をしているのは重々承知ですが、どうぞよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去はどこにもない

それでいいです。過去という言葉があるから、どこかにあるように思うかもしれませんが、それは記憶であり、過去というものがあるわけではありません。

前を向いて進む、という言葉もどこか向かうところがあるかのように思いますが、どこにもそんなものはない。あるのは今、場所で言えばココ。それしかないのです。

だから反省した後は、引きずらない、二度としない。それだけの話です。大丈夫、言い聞かせなくてもあなたの体は過去にいない。今、ここをしっかり生きています。前でも後ろでもないイマココを生きることが幸せということなんです。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

前に進まなくていい そこに処するのみ

言葉で脳をだますことより言葉を超えることです。
アファメーションやポジティブな言葉の効果で人生がコロリと変われるのであればみんなやってるでしょう。
たとえば、悪いことがあった時に良かったと唱えるという方法があります。
事故をしても、けがをしても、周りが思い通りにならなくてもよかったと念じて、その理由を後から考えるというものです。
一時的な効果はあるでしょうが、お釈迦様の教えというよりは処世術。陽転思考と言われるもので、思考で思考を塗りたくっているようなものです。
仏道とは、言葉の意味に支配されない生き方です。
あなたは言葉に支配されているからいけない。
言葉に悪い意味をつけたり、悪い言葉として自身に機能させているから自身が言葉に毒されるのです。
前に進まなければいけないと思うと前に進めない自分を責めるでしょう。
言葉や考えに縛られていることの方をこそ問題にされるとよいでしょう。
人生には本当の生き方というものがある。
自分が自分に騙されんようになることです。
人間は自分の思いというタヌキとキツネに化かされてばかりです。
言葉で自分をファブリ〇ズすることはそういう生き方を続けていくということです。
人間が真に自由になるということは中道といい、自分の思考に支配されなくなることなのです。こうするべきだ、ああするべきだ、という人間の思考の中には必ずしも良い答えがあるとは限らないものです。
考えそのものをこそ離れてみましょう。
第三の道を見出すのです。
言葉や考えではない生き方があるのです。
黙って本当にそこに処せる人となるのです。
何をみるにも聞くにも自分の思いをそこにまぜこぜにしていることこそがあなたの人生の最大の苦しみです。
今後も続いていく自分の人生の中で、幾度となくタヌキやキツネがあらわれてあなたを苦しめる。あなたはそのタヌキもキツネも飼いならす必要がある。
自分が自分を苦しめていることに気づけたならば、自分が自分を救える道を選択されることです。
仏道というは自己をならい明らむる道なり。
己が己を無私に導いて己に使われなくなる道です。
関心があれば坐禅会にご参加ください。
言葉が機能する前の事実があるということを自身の目で確かめに来てください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

これでいいのだ。

物事は、
いろいろなご縁の積み重ねで出来ています。
自己責任100%なんてありえないです。
私なんて自己責任10%だと思って生きています。

身に振りかかってきたことは、
自力ではどうしようもないのです。
良し悪しや好き嫌いを言っても始まらないのです。
全て引き受けるしかありません。

だから、
「これでいいのだ」と
開き直るのがよろしいのではないでしょうか?

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有り難し
おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
今が大事なんですね。心が痛くなったら「今をちゃんと生きる」っと思い、そして「これでいいのだ」っと思っていきます。
ありがとうございました。

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