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自分自身が嫌いです。

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他人の仕事の充実ぶりや、楽しそうな話を聞いては何故私は仕事を転々とし、中々職につけないのだろうと思ってます。学生時代とは違って、周りの一緒に働いている方ともある程度付き合っていかない。そこで上手く最初の職場でいかず、退職し次も同じように退職し、次は何か私がおかしいのかと思い、精神科、心療内科があるクリニックでようやく大人の発達障害だと分かりました。(ADHD,アスペルガー症候群)そのせいにしてはいけないのかも知れませんがやはり共通理解が皆とはずれていたり、苦手な事も多々ありました。その事をカミングアウトして今の職場も居ずらくなり退職しました。こんなダメな私を私が許せず、周りはきちんとキャリアを積んで進んでいっているのに私だけ取り残されたような気持ちです。そんな不安を母親(父とはあまりうまくいっておらず話も殆どしません)に相談をしていたら、母親に私もおかしくなりそうだと言われました。でも、日が暮れてくると本当にダメで不安になってしまって、メールしたり電話をかけたり、実家に行って話を聞いてもらったりしてます。これではダメだと思っていても、だめで、やめられずです。こんな状況では一人暮らしなんてまともにできないと思い、実家へ勝手ながら帰りたいと伝えたのですが、部屋もなく、隣に住んでいる父方の祖母たちにもやんわりと断られてしまい、不安でいっぱいです。この不安な気持ちを抑えるには、どうしたら良いのでしょうか?この世から去ったら良いのでしょうか?もう、自信もなく希望もあまりなく、楽になりたいです。こんな事しても親不孝者だとも思ってます。けど、1人で自力で生きていける姿が想像できません。自分を自分でコントロール出来ません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

口を開くなら自他が喜ばしい言葉を発する

これは本当に効果的なことですから、今から自分が書いた質問文を全部訂正されるとよいでしょう。
自分が使っている言葉があなた自身の精神をも作っているのです。
暗い言葉や自分が嫌いだとかネガティブな言葉などは使えば使うほど、その言葉の術中にはまる。
つかえばつかうほどどんどんネチネチする。
つまり自分で自爆する行為をしているのです。
さて、ここからあなたは言い訳を考えたくなるかもしれませんし、つい、またネガティブな言葉を習慣として発したくなるでしょう。
その時こそが一番のチャンスなのです。
お肌に潤いを与えるにはお風呂上がりの2分間が勝負であるといいますが、あなた自身の癖を正す、治すには自分でそのネチネチをやっている時に自覚して、それをストップさせるよりほかにありません。
どうしてこの火は消えないんだろうとブツブツ言いながら火に油を注いでいるだけなのです。
自分が自分をいじめていることに気づいたらそちらの県からでは遠いでしょうから、治したければお電話ください。文字には限りがありますし、解釈を誤れば効果がありません。
ただし自分を本当に治そうという気持ちが強く沸いてからにしてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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