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お坊さんに転職するには

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転職としてお坊さんになりたいという人も世の中にはたくさんいると思いますが、ほとんどの人は具体的にどうしたらよいのかわからないと思います。

まずは、履歴書をお寺に送って面接を受けて修行から始めないといけないとか、講習を受けないといけないとか。また、こちらから宗派を選べるのかとか。求人も見た事はありません。

もちろん職業というわけではないと思いますが、お坊さんに転職したいと言う人はたくさんいると思います。具体的な手順がわからないので、その選択がなくなってしまっている人も中にはいるのでは。

ざっくりと転職するにはどうしたらよいのかお聞きしたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

カブトムシの幼虫ちゃん 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

日本において僧侶となるには、現在の日本仏教の各教団における大本山寺院本部に僧侶資格の要項をお問い合わせ頂くのが最も早いのではないかと存じます。その中で自分の信仰、信心、興味などを勘案し、ある程度絞られた上にてご選択なさり、決意なされたならば正式に入門、修行課程をお進みになられ、僧侶資格を目指されるのが良いかと存じております。ウィキペディアの大本山寺院一覧をご参照下さいませ。

但し、現在日本国内の伝統仏教宗派の僧侶が、正式な真の僧侶と言えるのかどうかと言いますと・・正直、難しいところもあります・・

本来、正式な僧侶となるには、比丘戒・比丘尼戒などの別解脱戒の戒律を授けられて、更には大乗仏教僧侶であれば、菩薩戒・三聚浄戒、密教僧侶であれば、三昧耶戒など、遵守すべき前提となる戒律があり、その戒律を授ける正当な戒壇もなければならないのであります。また、その戒を授ける者・師も正当な僧侶であることが必要となります。

「戒律」ウィキペディア参照から「・・現在日本国内の伝統宗派の僧尼は、出家者の波羅提木叉(別解脱戒)を、教義上、平安時代以降は受けておらず、無戒である場合がほとんど・・」(形式的には一定の戒壇での受戒は行われているため、何を根拠として平安時代以降とされているのかについては検証が必要とも考えます。問題は実質的な形骸化と破戒容認傾向の度合いにあると言えるでしょう。)

拙生は自分自身のことを「正式な僧侶」と思ったことは一度もありません。上述のような真に正式な受戒も経てはおらず、ましてや、別解脱戒の内容さえも全て知らずであり、修行は形式的には禅専門道場にて行いましたが、帰山後においては、特に妻子帯もした上に、正式な戒律を守っていると言える自信は全く無く、中途半端な「世俗・在家僧侶」であると常に猛省し、あまりの情けなさで時に嫌になることさえもあります・・世襲の悲しい現実でもあります・・

もしも、真に正式な僧侶としての受戒を望まれるならば、あくまでもこれまでの拙偏知見に過ぎませんが、根本仏教・初期仏教では日本テーラワーダ仏教協会にて、また、大乗仏教では、日本から離れますが、チベット仏教ゲルク派などが良いのではないかと存じております。参考となりましたら幸いでございます。

川口英俊合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

お坊さんは職業としてみない方がよろしいかと思います

転職、という感覚でお坊さんになるのは正直お勧めいたしません。
世の無常を感ぜられ、苦からの解放、安らぎを得たい、仏法を学びたい、という強い志である菩提心が自然に起これば、職業としての僧侶になろうというより、実質的な僧侶ライフが展開されると思います。
肩書きうんぬんより、実質的に仏道を学ぶことはできるからです。

例えば、ラーメン屋に、就職を試みたとします。
「お前、ここに就職を希望した動機はなんだ?」
「はい!給料がいいからです!」
「家から近いからです!」…では店長もガックリ。(-_-)

「この味に感動しました!この味をマスターしたい!」
「ラーメンで人を幸せにしたいんです!」という強い志が先に起こりませんと、ラーメン業界でも、料理の道から外れ、お金お金ばかりのビジネス志向になってしまうと思います。

僧侶の世界は仕事、ビジネスではなく生き方であると思います。
菩提心が起これば自然に問題は解決されると思われます。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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