hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

いつまでも過去にウジウジ悩んでしまう。

回答数回答 2
有り難し有り難し 22

こんにちは。

質問させてください。

わたしは、ずっと精神的にも肉体的にもしんどかったり、どうしたらいいのかわからなくて長年一人で悩んできました。

人に相談したりカウンセリングにも通ったけど、
藁をすがる思いだったのですが誰も助けてくれない気がして
何しても孤独でした。

そして身体が動かなくなり、吐いてばかりで、ペンさえも重く感じて持てませんでした。もう死ぬと思いました。

でもある日苦しみから少し抜け出すことができました。

それはシンプルとてもカンタンなことで、なんで今まで気づかなかったのだろうと思いました。

それから、どんどんラクになりつつあるのですが

楽になればなるほど、
今まで苦しかったこととは
違うことについて苦しくなります。

どうしても自分の過去の過ちに罪悪感や怒りがでできたり恥ずかしく思ったり、

苦しんでいる時期が長かったのでなんで
誰もあの時助けてくれなかったんだろうと人を恨む気持ちが強くあります

辛かったねとか、
同情が欲しいのではなくて、

どうして助けてくれなかったのかが、
知りたいです。

そんなのわかるわけがないと思いますが…。

またもっと早く気付いていれば
早く教えてくれれば、
こんなことには…とウジウジ考えてしまいます。

これは妄想で、
そんな考え間違っていることは理解していますが
感情ではとても
そうは思えなくて苦しいです。

過去はないので手放しましょう。
今がここに生きよう。

とか慰めみたいな
そういう本は腐るほど読みましたが、
言ってることはわかるけど、
でも過去のストーリーはとてもリアルなので苦しいです。他人と比較してしまい、
やっぱり昔の自分の愚かさに悩んでしまいます。罪悪感がすごくあります。

人に自分の過去を知られたくないです。

こんなに愚かな人は他にいないんじゃないかと毎日思います

この考えをやめたいです。

どうしたらいいのか教えてください。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まわりのせいにしてはいけない

過去は過ぎ去ってもある。
過去の積み重ねが今の自分だから。
過去を背負わない人生などどこにもない
ということ。

あなたには安っぽい慰めより
叱責が必要なのでしょう。

助けてくれなかったのは、ひとえにあなたに人徳がなかったからです。
僕も人徳がなかったが故に苦しい時に救ってくれる人はいませんでした。
たくさんの協力や助けを得られる人もいます。
たったひとり自分の力だけで道を切り開かねばならない人もいます。
僕とあなたは後者です。恨むならとことん恨む。
そこから答えが見えてきます。
見えてきたらまたいらっしゃい。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

何もつけずにそのままでお召し上がりください。

誰もあなたの為に生きていた訳ではないから。
みんなアナタのように自分に精一杯だったから。
あなたの質問がそうでしょう。(^<^)
あなたもあなたを助けてくれなかったことに怒っている。
他のみんなものそうなのです。
みんな自分に精一杯。
だから、自分から救われた人から順に自分に困っている人に助けてあげるのです。
私もそうでした。
自分の思いから自由になるまでは、どうしてもっと早く教えてくれなかったんだとすら思ったものです。
でも、いつもせき止めていたのは自分なのですよね。
そこに気づいてください。
最初からちゃんとした答えが与えられていながらも、人間の迷妄の闇(自分の見解)でそれをそのままストレートに受け止めていなかっただけなのです。
あるお店に行くと、「はじめは何もつけずにお召し上がりください」と言われることがあります。
それに似ています。
私は今も参禅者、質問者さまがたに、ストレートでお召し上がりください、と回答しています。
ところが多くの人が、人間の自我のタレ・ソースを串カツのようにべちょべちょつけて食べてしまうから、ソースの味になる。
これからは誰の話を聞くにしてもソース付けずに素材そのもの味を食べて味わってみてください。
あ、串カツはソースでね。(^<^)

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ