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車道で子どもを遊ばせて平気?

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お世話になっています。
生き死にほどの苦しみではないのですが、モヤモヤとしてしまい、聞いて頂きたくご相談します。

娘の通う保育園は車道に面しています。車の往来は激しくはないもののゼロではなく、十字路、T字路がすぐそこです。
娘は3歳で、車道では遊ばない事や手を繋いで歩くことを伝え続けていて、私と2人の時はしっかり約束を守ろうとしています。
しかし、友達と帰りが一緒になると歯止めが効かず門扉から飛び出し走りまわり、私の制止の声も届きません。
気持ちはわかるのですが、やって欲しくないことなので抱き上げる等して止め、落ち着いてから話をしています。
モヤモヤとするのは、一緒に飛び出していく友達のお母さん達が、子どもを全く止めようとせず、世間話をしている姿です。私にも話しかけてきますが、それでいいの?と思ってしまいます。
まだ自己抑制が十分でない子どもが、自分で一歩踏み止まれるように、意識だけでもつくようにと声をかけるのですが、
周囲のお母さん達の様子を見ていると、私は過保護?と戸惑いました。
自分の子にだけ危ないと話すのも違和感がありますし、かと言ってお母さんの前で諭すのもなんだかなぁ…と煮え切りません。
どんな対応や声かけ、心構えでいることが良いでしょうか。
お知恵をお貸し下されば幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お子さんとお約束を。

子供のころ車にはねられそうになった丹下と申します。
なんだかんだ言って車が通るところは危ないものです。
公園やお寺など車の出入りの少ないところ「遊ぶべきにふさわしい処」で遊ばせてあげるようにされた方がいいと思います。
お子さんたちが遊んでいる時は車が先に通るところに親御さんが立っているですとか、お子さんにカラフルな洋服を着させるなど、少しでも危なくないようにするよりほかありません。
分別がつく頃になれば車が来たらすぐに自分でよけるものです。
それ場での数カ月、数年の間ですからこればっかりは面倒でも万全を期するよりほかありません。お子さんを守れるのはその時傍にいる保護者の方しかいませんから。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

道の状況による

見通しがよい道路で、車が近寄ってきたら保護者が気づくような場所なら、車が近寄ってきたときに初めて「車が来てるよ!」と保護者が大声を出せば、それでいいのかもしれません。
立ち話をしながらも、実際に危険が迫ったときには大声で警告を出せるような状態であれば、子供だけで道に出てもよいかもしれません。

自分で決めたルールに縛られず、その場の状況に合わせて臨機応変に対応してもよいかもしれません。
立ち話しているお母さん達も、本当に危険なときは子供を制止するのではないでしょうか?

私の家の近所なんかは、めったに車が通らない道です。
そんな道ならある程度子供を遊ばせても平気でしょう。
どんな道路なのかによっても、対応は違うでしょうね。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

丹下様、度々のご回答ありがとうございます。車にはねられかけたとの事、大事なく良かったです。
分別にはまだもう少し…の幼い子の保護者として、せめて目の届く範囲では万全を期したいです。
願誉様、おそらく周囲のお母さん方はそういった見方なのかなと思います。
私は子どもに「車のくるところでは遊ばない」と伝えているので、違和感があったのだろうなと思い至りました。

職業柄もあり、子どものケガは本当に一瞬の出来事だと痛感しています。
後悔のないよう、周囲とも摩擦の少ないよう…努力したいと思います。

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