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人の死について

回答数回答 3
有り難し有り難し 51

死というイベントが良くわかりません。

死は所詮他人のイベントだと思うのです。

ご遺族が『後を追いたい』と言っても実行する方より生きている人の方が多いのでは無いでしょうか。楽しい思い出と時折思い出す悲しみはあるかとは思いますが、死に際の辛さは風化されていくように見える気がします。

また、亡くなられた際について周囲の方(ご遺族も含めて)の反応は
大往生された方には『立派』と褒め称えるように、
病気で亡くなられた方には『最期まで闘病して...』と勲章のように、
でも自死については世間に知られたく無い雰囲気が漂いますよね。
死にもランクがあるのでしょうか。私はランク付けされたくないです。

結局いくら周囲が『生きて、死なないで』と言ったところで、他人のイベントでしかない以上説得力がないと思っています。
このような考えの私はどこかおかしいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「親しい人を亡くす」という体験は、自分の体験

たしかに、他人の代わりに自分が死んだりはできませんが、
親しい人を亡くすという体験は、遺された人自身の体験になります。

親しい人に対して「死んでほしくない」と願うのは、やはり自分の体験です。

ためしにイメージしてみてください。
明日、日本中の人が一斉に死に、水道も電気も動かなくなるとして、あなた1人が死体だらけの日本に残されるとしたら?
あなたは、「日本の皆さん死なないで」と願うはずです。
死なれたら困る、死なれたら悲しい、死なれたら寂しい、というのは、残された人の体験です。

親しい人に自殺されたら悲しい場合が多いと思います。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

おかしいとは思いません

ゆきのさんの考えがおかしいなんてことはないと思いますよ。
おっしゃっていることもよく分かります。
考え方も言葉のチョイスも人それぞれですからね。そう考える人もいればそう考えない人もいるでしょう。
おかしいと言う人も言わない人もいるかもしれませんが、私はおかしいとは感じませんでした。ごく自然の感覚だと思います。

どんな感情も風化するのは諸行無常の理ですし、ランク付けもされたくありませんよね。

ただ一つ、周囲の説得についてはその言葉に説得力があるかないかももちろん大事でしょうが、理屈というよりは気持ちなのかなとも思いますし、あとはやはり縁でしょうか。

誰に言われるか、いつ言われるか、その人はどんな状態か…という様々な縁によってたとえ説得力などなくともその言葉によって選択が変わることは有り得るのではないでしょうか。

ゆきのさんの考えについて誰かからおかしいなどと言われたのでしょうか?そんなことはありませんよ。自分を責めないでくださいね。

また何かありましたらご相談を。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

死は他者のイベントではなく共通共有の一大事実

その方が死ぬということが一番の真実の説法です。ただ悲しいかな、あなたはそこに「主観」を持ち込んでおられる。その死というわたくし無しの「おおやけの」一大真実にあなた自身が「わたくし」を持ち込んでおられるから、所詮他人のイベント…的な冷めた目で見てしまっているのだと思います。
その憂いある思いをこそ、導くのが生きている人たちの一番大切なことではないでしょうか。
これはあなた自身もいずれ死を迎えることが確約されてしまっているからこそ、あなたにとっての大きなテーマでもあるのです。
お釈迦さまが若い頃、ここを痛感されて自ら死に向き合い、死に対して恐れや不安が無くなったというある種の人類史上の歴史的な快挙がお釈迦様の悟り・正覚なのです。
正覚でないものはどこまで行っても「私はこう思う」という個人的な見解でしかありません。
私の個人的な…というワタクシ的な意見を離れますと、法としてのありようが明らかになっています。
死とは誰もが避けられない一大真実です。
そこには本当は良いも悪いもないほど、一大真実です。
多くの人があなたも含め、そこに憂いの心や希望を見出せなくなってしまうからこそ、そこからどっちへどのように進んでいくべきなのか。それが仏教の教えが指し示してくれている「生き方」というものです。
亡き人への報恩感謝として菩提心を起こし、自ら生老病死、四苦八苦という苦しみを超える生き方をあゆみつつ、菩薩道という世や他存在を利益する生き方があるのです。
それもどういうわけかわかりませんが、我々が誕生とともに組み込まれている天然の安らげる生き方、心のあり方でもあるのです。そういう「法」にかなった生き方というものがあるのです。
法にかなった生き方をしないとどうしても「ワタクシ的な」流れに逆らって負担の大きな生き方をするようになるのです。どんなに立派な正論に思えても、それで幸せではないという正論はおそらく本当の意味での正論ではないからなのでしょう。
ご自身の論、正論よりももっと安らげる本当の正論というものがあります。
それが法にかなった生き方というものなのです。
法とはお釈迦さまが制定した法ということではなく、人間は争ったり、いがみ合ったり、悪をすることなく「こうした方がしあわせ・やすらかになれる」という天地自然の法則にかなった生き方なのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

さっそくのご回答ありがとうございます。

屁理屈とは思いますが、日本中の方が一斉に死に...の状況では生き返ることは無い訳ですから、その場合逆に死にたくなると思います。また、自分が死にたくないor困るor寂しいから『日本の皆さん死なないで』という事でしたらエゴでしかない、まさに自分勝手な願いだと思います。

悲しいというお気持ちがあるのは理解しております。

ありがとうございました。

吉武文法さま。
ご回答ありがとうございます。

共感していただいて嬉しく思います。

説得の言葉で選択が変わるというのには成程と思いました。
誰かに直接おかしいと言われた理由ではないのですが、中々同じ考えをしている方に巡り会えなかったので疑問に思ったのです。

ありがとうございました。

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丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
なるほど。私の考えは法から外れているのですね。

人間や生きているものは生まれたら死ぬ、これは自然の摂理です。当たり前の真実ですのに死ぬことに恐怖を覚える事の方が不自然ではないでしょうか?永遠に生きているように見える太陽や宇宙ですらいずれは死ぬ事も最近では知られている事です。
ただし、世の方が恐怖や不安を抱えてしまうことを否定するつもりはありません。

今現在生きている者として自分の心が幸せである生き方は、他人や自分を生かしてくれている者に感謝する、また他人を尊重し敬意を払う、難しい事ですがそうした方が『自分』の心が平穏になる生き方という事も理解しているつもりです。(私もそうしたいです未熟者ですので完全にはできません)

誰か(飼っているものも)が亡くなったら悲しい、寂しい、辛い、その気持ちもわかるつもりです。ですが、遺された方々に対してそこから立ち直らせるために『お辛いでしょうが生きていきましょう』と葬儀や講和で話しかけませんか?亡くなった方が生き返ることは無いのですから。
結局『亡くなった』という事実を受け止めて生きている、自分は死んでいないから生きている。ただそれだけの事ではないのかと思った次第です。

『ワタクシ』があるから辛い、というお言葉を考えてみたいと思います。
長文になり申し訳ございませんでした。
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ