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人の死について

回答数回答 3
有り難し有り難し 42

死というイベントが良くわかりません。

死は所詮他人のイベントだと思うのです。

ご遺族が『後を追いたい』と言っても実行する方より生きている人の方が多いのでは無いでしょうか。楽しい思い出と時折思い出す悲しみはあるかとは思いますが、死に際の辛さは風化されていくように見える気がします。

また、亡くなられた際について周囲の方(ご遺族も含めて)の反応は
大往生された方には『立派』と褒め称えるように、
病気で亡くなられた方には『最期まで闘病して...』と勲章のように、
でも自死については世間に知られたく無い雰囲気が漂いますよね。
死にもランクがあるのでしょうか。私はランク付けされたくないです。

結局いくら周囲が『生きて、死なないで』と言ったところで、他人のイベントでしかない以上説得力がないと思っています。
このような考えの私はどこかおかしいのでしょうか?

2018年1月26日 12:46

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おかしいとは思いません

ゆきのさんの考えがおかしいなんてことはないと思いますよ。
おっしゃっていることもよく分かります。
考え方も言葉のチョイスも人それぞれですからね。そう考える人もいればそう考えない人もいるでしょう。
おかしいと言う人も言わない人もいるかもしれませんが、私はおかしいとは感じませんでした。ごく自然の感覚だと思います。

どんな感情も風化するのは諸行無常の理ですし、ランク付けもされたくありませんよね。

ただ一つ、周囲の説得についてはその言葉に説得力があるかないかももちろん大事でしょうが、理屈というよりは気持ちなのかなとも思いますし、あとはやはり縁でしょうか。

誰に言われるか、いつ言われるか、その人はどんな状態か…という様々な縁によってたとえ説得力などなくともその言葉によって選択が変わることは有り得るのではないでしょうか。

ゆきのさんの考えについて誰かからおかしいなどと言われたのでしょうか?そんなことはありませんよ。自分を責めないでくださいね。

また何かありましたらご相談を。

2018年1月26日 13:02
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有り難し
おきもち

はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

「親しい人を亡くす」という体験は、自分の体験

たしかに、他人の代わりに自分が死んだりはできませんが、
親しい人を亡くすという体験は、遺された人自身の体験になります。

親しい人に対して「死んでほしくない」と願うのは、やはり自分の体験です。

ためしにイメージしてみてください。
明日、日本中の人が一斉に死に、水道も電気も動かなくなるとして、あなた1人が死体だらけの日本に残されるとしたら?
あなたは、「日本の皆さん死なないで」と願うはずです。
死なれたら困る、死なれたら悲しい、死なれたら寂しい、というのは、残された人の体験です。

親しい人に自殺されたら悲しい場合が多いと思います。

2018年1月26日 13:00
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有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

死は他者のイベントではなく共通共有の一大事実

その方が死ぬということが一番の真実の説法です。ただ悲しいかな、あなたはそこに「主観」を持ち込んでおられる。その死というわたくし無しの「おおやけの」一大真実にあなた自身が「わたくし」を持ち込んでおられるから、所詮他人のイベント…的な冷めた目で見てしまっているのだと思います。
その憂いある思いをこそ、導くのが生きている人たちの一番大切なことではないでしょうか。
これはあなた自身もいずれ死を迎えることが確約されてしまっているからこそ、あなたにとっての大きなテーマでもあるのです。
お釈迦さまが若い頃、ここを痛感されて自ら死に向き合い、死に対して恐れや不安が無くなったというある種の人類史上の歴史的な快挙がお釈迦様の悟り・正覚なのです。
正覚でないものはどこまで行っても「私はこう思う」という個人的な見解でしかありません。
私の個人的な…というワタクシ的な意見を離れますと、法としてのありようが明らかになっています。
死とは誰もが避けられない一大真実です。
そこには本当は良いも悪いもないほど、一大真実です。
多くの人があなたも含め、そこに憂いの心や希望を見出せなくなってしまうからこそ、そこからどっちへどのように進んでいくべきなのか。それが仏教の教えが指し示してくれている「生き方」というものです。
亡き人への報恩感謝として菩提心を起こし、自ら生老病死、四苦八苦という苦しみを超える生き方をあゆみつつ、菩薩道という世や他存在を利益する生き方があるのです。
それもどういうわけかわかりませんが、我々が誕生とともに組み込まれている天然の安らげる生き方、心のあり方でもあるのです。そういう「法」にかなった生き方というものがあるのです。
法にかなった生き方をしないとどうしても「ワタクシ的な」流れに逆らって負担の大きな生き方をするようになるのです。どんなに立派な正論に思えても、それで幸せではないという正論はおそらく本当の意味での正論ではないからなのでしょう。
ご自身の論、正論よりももっと安らげる本当の正論というものがあります。
それが法にかなった生き方というものなのです。
法とはお釈迦さまが制定した法ということではなく、人間は争ったり、いがみ合ったり、悪をすることなく「こうした方がしあわせ・やすらかになれる」という天地自然の法則にかなった生き方なのです。

2018年1月27日 5:53
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

質問者からのお礼

さっそくのご回答ありがとうございます。

屁理屈とは思いますが、日本中の方が一斉に死に...の状況では生き返ることは無い訳ですから、その場合逆に死にたくなると思います。また、自分が死にたくないor困るor寂しいから『日本の皆さん死なないで』という事でしたらエゴでしかない、まさに自分勝手な願いだと思います。

悲しいというお気持ちがあるのは理解しております。

ありがとうございました。

吉武文法さま。
ご回答ありがとうございます。

共感していただいて嬉しく思います。

説得の言葉で選択が変わるというのには成程と思いました。
誰かに直接おかしいと言われた理由ではないのですが、中々同じ考えをしている方に巡り会えなかったので疑問に思ったのです。

ありがとうございました。

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丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
なるほど。私の考えは法から外れているのですね。

人間や生きているものは生まれたら死ぬ、これは自然の摂理です。当たり前の真実ですのに死ぬことに恐怖を覚える事の方が不自然ではないでしょうか?永遠に生きているように見える太陽や宇宙ですらいずれは死ぬ事も最近では知られている事です。
ただし、世の方が恐怖や不安を抱えてしまうことを否定するつもりはありません。

今現在生きている者として自分の心が幸せである生き方は、他人や自分を生かしてくれている者に感謝する、また他人を尊重し敬意を払う、難しい事ですがそうした方が『自分』の心が平穏になる生き方という事も理解しているつもりです。(私もそうしたいです未熟者ですので完全にはできません)

誰か(飼っているものも)が亡くなったら悲しい、寂しい、辛い、その気持ちもわかるつもりです。ですが、遺された方々に対してそこから立ち直らせるために『お辛いでしょうが生きていきましょう』と葬儀や講和で話しかけませんか?亡くなった方が生き返ることは無いのですから。
結局『亡くなった』という事実を受け止めて生きている、自分は死んでいないから生きている。ただそれだけの事ではないのかと思った次第です。

『ワタクシ』があるから辛い、というお言葉を考えてみたいと思います。
長文になり申し訳ございませんでした。
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日本、自然死を知らない医師

いろいろ、いろいろ、思うことがあって、思うことがあり過ぎて溢れて、うまく文章に出来ないです。 死とは何か…医者は自然死を知らない 「延命治療」蔓延する日本と「自然死」選ぶ欧米 夕刊◯ジの記事は、良くも悪くも、日本人の「自然死」に対する考え、気持ち、心について、考えるきっかけを与えてくれているように感じました。 良いとか悪いとかじゃなくてです。 いろんな意見があります。 どの方の意見も分かります。 そうだね、そうだよね、と思います。 ただ記事にすると、意見の押し付けや行き過ぎた言葉が並んでしまいがちで… でも、それも仕方がないことで… 何せ人間が書いた記事ですからね… 意見の押し売りさえなければ、それも良しとするしかありませんよね。 私も自然死賛成、いや、自然死なんて嫌だ、延命治療はしたくない、いや、延命治療だって必要だ… どれも、そうだよね、と思います。 医療者の側からすると、治療拒否→治療しない、とは出来ない事情もあります。 それも仕方がないこと。 最近、腎臓の病気を患う患者さんに対して、人工透析をせず死なせた!という事件(?)が世間を騒がせたけれど… じゃあ…ただ人工透析を続けるのみ、人工透析の拒否を受け入れない医師が、良い医師、正しい医師、と言えるのか… 私がよく経験した話になります。 タクシーに乗った時に「◯◯大学病院までお願いします」と言うと、私がまさか職員とは知らず、見舞い客か何かと思って、こんな話をされたりするのです… 「僕の兄貴も腎臓悪して、ずっと◯◯大学病院で透析うけとったんや。でもな、しんどうてしんどうて、もうええ、透析はやめる言うてな、ホンマにやめて、死んでんけどな、やめて良かったわ、医者は反対してたけどな、やめて良かった…」 だから、透析どうこうは、そんな単純な話ではないと私は思うのです。 じゃあ、ケースバイケースだ!という人が正しいかと言えば、そんなこともないし、それだって言ってしまえば綺麗事であり他人事のように聞こえます。 正しい答えなんて、ない。 じゃあ、どうしら…? お坊さまたちは、人が人としとある最後の姿、亡くなった姿をたくさん見ている貴重な方々です。 自然死、延命治療、その他いろいろ… お坊さまの意見…?というか…お坊さまの心の中にある想いをお聞かせ願えませんか?

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

どうして死にたいという人を見過ごせないんだろう

数年前の一時期、全く通りすがりのブログに「死にたい」というSOSを続けざまに見つけたことがありました。一晩に5、6件とか。 「死にたい」は「助けて」だと思います。 希死念慮はどれくらいの緊急性があるかによって違ってきますが、プロフィールや住所などがある程度特定可能な場合ですと、公的機関…と言っても警察は事件が起きないと動いてくれないので、主にその人の地元の役所や福祉の関係の機関にお願いするしかなかったりします。ある程度深刻かも、という場合ですが。 とおりすがりの人間がコメントを入れても効果があるかどうかわかりませんし、むしろ逆効果になったりすると最悪なので、そのあたりに匿名性の限界があります。 何かやった、というにはあまりにもささやかなことですし、効果があったかどうかなんて全然わかりませんでしたが、でも何かしないといられない気持ちがさせたことでした。 過去の自分がそうやって必死になったことがあるので、自分が死にたくなった時には、もしかすると友人知人家族のみならず、見知らぬ人がどこかで祈っていてくださるかもしれない、と思って、ちょっと考える余裕を持つことが出来ています。 手を伸ばそうとしたその時の誰にも伝わっていないかもしれませんが。でもやらずにはいられなかった。大きな事故や災害の時にも無事を祈りますよね。そういう気持ちと同じです。直接に助けにいけないもどかしさはありますが。 私も双極性障害の持病があるので、よく希死念慮には襲われます。自分がすごく死にたい気分の時なのに、いまにも死にそうな人に遭遇すると、思わず助けないといられない、っていうのはなんなんでしょうね??かなり本能に近い?崖っぷちの人を助けようとしたら自分も落ちる危険があるけど、それでも手を伸ばす。人って不思議だな、と思います。(サイコパスな人の心境は不明ですが) 自分のいままでの行動でずっと不思議だと思っていたことでした。「それじゃあ、一緒に死のう」とは思わないんですよね。本能とか良心とかが関係しているのかな?とも思えますが。 もしかしたら「いまにも死にそうな人」に自分自身を投影していて、その人が救われると安堵するというか、そのへんはもう彼我の境界が薄くなっているのかもしれませんが。でもこれは私だけではない心理だと思えます。悩みつつ、行動しています。ささやかですが。 でも謎心理です。

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