ヌミノース体験について
私は、今スペインの大学院で、宗教学について学んでおります。
お恥ずかしい事に、日本に住んでいるときはあまり仏教について考えた事がなかったのですが、今自分が海外にいる事で、改めて日本が仏教国であり、数々の素晴らしい文化、そしてそれにともなう言語・思想等を生み出してきたという事に気付きました。
そこで、今仏教について、スペインで本格的に研究しているのですが、どうしてもスペインにある仏教に関する本ではわからない事がございまして、ぜひお坊さんたちに答えて頂きたい質問がございます。
ドイツの宗教学者であるルドルフ・オットーが、「ヌミノース」という言葉で表している、言葉では言い表す事のできない他者では経験不可能な不思議体験・神秘体験(?)が一体どのようなものであるのかを、教えて頂きたいのです。
恐らく日本語で表すと、『見性体験』というものだと思います。ルドルフ・オットーも「聖なるもの」という著書の中で、この経験の内容に関しては体験者の唇は固く閉ざされると言っておりますが、仏教を研究している以上、私はどうしてもこの体験がどのような物なのかが知りたいのです。
もし言葉で深く説明できないのであれば、本当にキーワードだけでも良いので、どのようなものなのかを教えて頂きたいです。
難しい質問かもしれませんが、どうぞ宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
他の宗教や宗派についてよく知らないので参考まで。
英語でリリジョンを日本語に訳す時に宗教という言葉を使いました。リリジョンの意味は神との結びつきですね。しかし、仏教は神との結びつきではありません。つまり、厳密には仏教はリリジョン(宗教)ではないといえます。
また、例えばキリスト教には聖書がありますので聖書に従えばいいのでしょう。しかし、文字では伝わらないというお釈迦様の考えがあり、仏教には聖書がありません。なので、歴代のたくさんのお弟子さんによって、たくさんのお経が書かれました。それらはお釈迦様が自ら書いたお経ではないのですが、その中にはお釈迦様の教えが色々な言葉で散りばめられています。ですから私達はそのお経を読み、自らお経の内容を実践して確認しながら、そのお経の行間(真意)を自分なりに解釈してお釈迦様の教えを読み解くしかないのです。
その解釈の違いによって、たくさんの宗派に分かれているのですね。
基本的には仏教徒は仏を信仰する者、仏を目指す者であり、神を信仰する者ではありません。(神は仏や仏教徒を守護すると解釈されています)ですから、ヌミノース(神を神秘的に感じること?)は仏教には無いということになります。
では見性体験はというと、宗派によって、人によって様々だと思います。私は経験がないので分かりませんが、ある人は自らの煩悩が無くなりありのままに物事を見える体験をそう呼んだり、またある人は、宇宙全体と自分が一つになった感覚をそう呼んだり、またある人は、阿弥陀仏の救いを感じてそう呼んだり、またある人は、自らの中の良心を感じてそう呼んだり、またある人は、この世全ての縁起を広く深く感じてそう呼んだり、などなど様々なのです。
そして、人それぞれ、様々でいい、というのもお釈迦様の教えなのです。(だからお釈迦様は文字では伝わらないと思ったのでしょうね)
長くなりましたが、ここに書いたことに間違いがあったらごめんなさいね。まだまだ勉強不足なのでお許しください。
仏教にめぐり合うのもお釈迦様の導きでしょう。これからも勉強に励んだくださいね。
ただし、仏教は机上の理論だけでは無く、実生活の中で実践することが大切ですからね。
また、機会があればダンマパダなどの古いお経も読んで実践してみてくださいね。
南無阿弥陀仏
追記
お寺で話を聞くのは良いですが、事前に連絡確認しましょうね
見性 成性 成本来性
見性とは自己の本性・本来性をみるということ。
人間は日常の9割を思考越しにものをながめている。
だからものをみるにも聞くにも自分の見が立つ。
見とは思い。思考。思慮分別。
そういう活動が9割だから哲学的に見性を知らんとしても、探求のためのこいでるペダルが最初から思考だからはじめの一歩目から求め方を間違える。
自己の本来性、仏性、法性とは人間の見解以前と言うことです。
哲学の世界ははじめに言葉ありきで事実を知るのに言葉から入る。だから最初からフィルター越しに眺めるのでホンモノを概念越しで無しに知る力を持てる人はマレです。
禅ははじめに事実ありき。
ものを見るにも聞くにもダイレクト。
この身心が触れているのはいつでも産地直送、無垢清浄、人間の見解のおてつきなしだから、その清らかなものを清らかなままに味わう。
だから世間からすれば「ケッタイな」坐禅というものをする。
上記のリクツでわかる物分かりのいい人であれば、なるほど坐禅は絶対しなきゃアカンということになる。
そうでないと考え越しにものを見ているアタマワールドの人間ができあがる。
坐禅人は考えというフィルターなし。ダイレクト事実ワールドに住しているから屁理屈要らず。
屁理屈なしに自身を見れば本来のあり様がそこに自ずから解明・開明される。
そこが本地の風光、本来地。人間の思考に染まる前の理屈では絶対に会得されない本来性を見るということ。ただし見ただけじゃ役に立たんし、一度っきりの体験自慢に陥る。だから、成性、本来性に成るということが大事になる。それが見性の徹底。大悟の徹底。
非思量というノンシンキングマインドで過ごしていれば必ず自己の本来性に目がいかないということが無い。祖師たちは自分に目を向けたから自己の身心に知覚されるものが空ぜられていると悟り、諸行無常、諸法無我じゃと明らかに知った。
それを別の側面から眺めると、人間のこざかしく騒がしい理論理屈屁理屈がなくなった静けさがあるから涅槃寂静という本来の様相がガチで明らかになる。
知らん人間が見性を神秘体験じゃとまつり上げるだけ。
知らない、体験が無いからテキトーに推測でものを語るようになる。世間のいかがわしい禅やいかがわしいスピリチュアルは「推測」でやっているから嘘くさいのです。
変なのにカブレないように気を付けましょう。ちゃんと実証した得法の「正師」から習うことです。
難しいご質問ですね
そんな単語、曹洞宗系の大学でも禅の修行道場でもお坊さんの研修会でも、一度たりとも見たことも聞いたこともありません。我々には無縁の概念です。
お釈迦さまは出家してから苦行を6年間続け、気付きました。「苦行して神通力や神秘体験を得ようとしても何の意味も無かったな。いたずらに体力を消耗しただけだった。」と。
「改めて日本が仏教国であり、数々の素晴らしい文化、そしてそれにともなう言語・思想等を生み出してきた」と実感していらっしゃるのなら尚更、西洋の神学者の言葉に仏教を当てはめながら学ぶのではなく、日本のお坊さんの言語・思想で学んでいただきたいです。
さて、それとは別件としてですが、ネットのinbuds、cinii、J-stageを使えば海外からでも日本の仏教学の論文を読むことができます。pdf化されているものに限りますが。ぜひ大学院での研究に役立てて下さい。
inbuds(インド学仏教学論文データベース)で「神秘体験」を検索してみましょう。ほとんど研究対象にすらなっていないことが分かっていただけるでしょう。巷で「仏教は宗教ではない。哲学だ。」と言われがちな所以です。
自らの体験としてでなく、単に知識としてお知りになりたいのであれば、ウィリアム・ジェームスの「宗教的経験の諸相」(ご存知とは思いますが)に書いてある内容で十分ではないでしょうか?
おっしゃるように禅の「見性」、また念佛門の「見仏」、真言宗の「悉地を得る」、などが基本的にはキーワードですが、、、。
念佛の見仏体験については、山崎弁栄上人の「日本の光」という伝記に、ある程度なら書いてあります。
ただ、冷暖自知の世界ですから、自ら体験せず、いくら知識を得たところであまり意味がないのでは? という気もしますけど、、、。
PS
もし万が一、スペインで念佛体験をされたいのであればご紹介できますので、あるいは体験にご興味があればご一報ください。
質問者からのお礼
お礼が大変遅くなりました。本当に申し訳ございませんでした。そして、大変詳しく教えてくださり、どうもありがとうございます。
実は、最初一読しただけでは意味がわからなかった事が沢山あったのですが、自分で10冊くらいの仏教に関する本を読み、その後でこのコメントを読み返して、やっとお坊さんたちが仰っている意味がわかりました。
これは、私がキリスト教の家庭で育ったせいで、仏教的な知識を(授業で習った以外に)全く持っていなかった事が原因です。
それこそ、お坊さんたちが仰っているように、「自分が経験していないことを頭で理解する」というのは非常に難しく、本に書いてある知識を理解するだけでも、冗談抜きで10日間くらいかかりました。それでも、ほんの一部分しかわかってないと思います。
また、コメントを頂きました全てのお坊さんの意見を元に、そして全てを参考にして私がテーマにしたヌミノースに関する論文を無事に書き上げる事が出来ました(教えていただいた通り、本当は仏教はヌミノースという単語使用ではないのですが…汗)。
本当に本当に、どうもありがとうございます。
最初は、もしかしたら非難されてしまうのではないかと不安でしたが、そんなことはなく、むしろ優しく丁寧に教えてくださる回答ばかりで、とても有り難かったです。
今回学んだことは、体験していないことを頭で理解するのは非常に難しいということと、今まで知らずにいた深い深い仏教の教えです。日本は、仏教国だともう一度再認識いたしました。あと、ヒンドゥー教にもだいぶ似ている部分があるので、興味深く研究する事が出来ました。
仏教は机上の理論ではないということを踏まえ、卒論をこのテーマにしようかなと思っております。ブッダの教えを踏まえると、それはNGなことなのかもしれませんが、、私自身はこのテーマにとても惹かれてしまいました。もうこの『惹かれてしまった』という概念自体、仏教ではだめなことかもしれません。でも、卒論をこのテーマにしたいのです。そこで質問なのですが、日本でお寺に行って、お坊さんに直接質問する事は失礼にあたりますか?
また、スペインで念佛体験ができるお寺があるという事ですが、それがどこなのか具体的に教えて頂きたいです。そこは、スペイン人のお坊さんでしょうか?