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罪悪感がぬぐえません

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有り難し有り難し 22

はじめまして、ちむんと申します。

いきなりで申し訳ありませんが
過去、付き合った女性とかっていた犬に罪悪感があり
自分が幸せになっていいのかと考えてしまいます。

私には過去、6年ほど同棲し、犬まで飼っていた彼女がおりました。
その彼女は起伏の激しい性格で、私は長年耐えたり受け流したり
しておりましたが、つらくなってしまい
出会い系サイトで女性と連絡を取るようになりました。

それが彼女にばれてしまい彼女は実家に帰ってしまいました。

私は出会い系で知り合った女性と付き合うことにはなったのですが
このようなひどい行いをした自分がいい思いをするのが許せないです。

合わせて、飼っていた犬は彼女と一緒に行ってしまったのですが
犬は私に非常になついていたのと
私の方も犬をとても愛していたため
離れるのはつらかったのですが、仕事が忙しい
新しい彼女に悪いなど自分本位の考えで
一度は看取る覚悟をしたはずの
犬を手放してしまいました。

元彼女と犬に対しての罪悪感がぬぐえず
今の彼女といても自分がひどくずるく感じてしまい
今の幸せな生活を楽しいんでいいのか悩んでしまいます。

どうか、この罪悪感との向き合い方をご教授していただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

飼い犬に咬まれる

心こそ飼い犬のようなもの。🐕
あなたはあなたの心を上手に飼いならさんと、寂しさ紛らわしで出会い系やらに手を出す。犬に引っ張られとったんです。
欲のままに人を傷つける。犬に引っ張られとったんです。
アレコレしなけりゃよかった。心迷わす。飼い犬に引っ張られ、自分でどうしようもなくなっている。
冷たいようですが、自分の心は自分の自己責任。飼い主の自己責任という面がどうしてもある。
だから、あなたは別れた彼女や犬をどうこうというより、その自分自身の心にこそ向き合うべきでしょう。
罪悪感に向き合うということは、ああ、本当に悪いことをしたなぁと後悔し、お詫びもうし上げ、今後自分の人生を律して二度と愚かしいことをしないように首輪で括り付けておくくらいの必要性があります。それが仏教でいうところの戒律であり、人間性、モラル。仏教であってもなくても人がしっかり自分のことなんだから自分でしっかりしなきゃいかんところでしょう。
人というものは生まれながらのそのまんまでは野犬と変わらんものです。
だからこその真の人間性、真の宗教性に目覚めて、今後あなたもいずれ結婚して子供を持つようになった時、奥さんや子供を泣かさんでいいような人間性になるべく、自身の心をよく飼いならさんといかんのです。
心をおさむるには、自分の心の起こりを知ることです。
その一念はどこから来るか。
彼の念の来たるところをおもんぱかることです。
自分が自分の一念に騙されんようになる。そうなってこそ大人物。
あなたの後悔は求不得苦の一種ともいえましょう。
今更どうしようもないことを嘆く。その嘆いていることはみんな自分の記憶や思い起こしというワンコを相手にしている。犬が西向きゃ尾は東。そっちばっかり向いてないで今日の今の自身の今をみる。今の一念をみる。どこより来ってどこへ去る。無いものを相手にして徒に自らを苦しめる。そういう負のループ輪廻から解脱して、きちんと詫ぶべきことを詫びて、改心して菩提心をおこして菩薩の道を修行して、世の肥やしとなる生き方をするべきでしょう。この自分というワンコロは人が偉くしてくれるもんじゃない。自分が自分のサガの情けなさに気づいて自らしつけて自ら立派にブリードするのです。🐕
そのワンコロの飼い主、主人公はあなたです。 
コトは事としてすでにおワンぬ おテつき🐾すべからず 今歩むところを今歩むのみ

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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