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禅定ってどんな感じでしょうか。

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有り難し有り難し 33

禅定とはどういう状態でしょうか。
悟りとは違うものですか。
どうすれば禅定になれますか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

子供のころ保健室で寝た記憶はありますでしょうか?

天井を眺めて、天井の模様というかシワというか、そういうのを何かを考えるでもなくシゲシゲと眺めている感じです。そういう時は雨上がりの晴れ間の景色のようにクリアーに見えることがありますよね。それが全方向からやってくる感じです。アッチの方からストーブの音が静かにコォォォっと聞こえる…コォォォ。コォォォォォォってよく聴こえてくる…

それが悟りと違うかと問われますならば、一緒ですと答えましょう。でも、これが悟り!と思ってしまったら、もう悟りではないのです。コォォォがコォォォであって、コォォォをコォォォのままコォォォするのです。コォォォは悟っているのだから、コォォォに悟りは余計なのです。

どうすれば禅定になれるか…お寺に行きましょう。身体のことは病院の先生に検査してもらわないと何とも言えないように、禅定のこともお寺のお坊さんに実際に見せていただかないと何とも言えません。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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もともとが禅定

CMで
「一からやり直しですか?」
「いいえ、ゼロからよ」
というのがあります。
あなたはこれをご覧になっている時におそらく「1」から思考をスタートさせてみていると思います。
ですが、万人の真相は、
「ゼロ」がら、思考を交えずに瞬時瞬時、思考を交えずに眺めている状態があるのです。
ここに気づけばいつでも禅定は始まります。
思いが主体にならない。
感受、事実が主体となる。
多くの人は思考を主体とさせて思考を軸にしている。
これは禅定だろうか、これが禅定だろうか、と自分を探るのも思考です。
禅定は、人間に元々具わった「出だしの一歩」いや「でだしのゼロ歩目」歩まんでもいいのです。
最初の元々が本来成仏だからです。
坐禅会に参加してその指導者のいうことをよく見極めることです。
これからゼロに向かわせるアクションがある坐禅はパッチもんです。
向かわんとするワンアクションがあるからです。
よき指導者に巡り合えることを祈っております。

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おきもち

何かをすることではない

そうした救いを求めるのであれば、他に求めてはいけないでしょう。
何か特別なことをして特別なものを得ようとしては、修行にならなくなります。
悟りとはこういうものだと、頭で先に決めつけていてはそこに到達することはないでしょう。

徹底して言えることは自分を知ることです。自分と思っているものはいったい何か、そこに気づき、救われていきます。

人は生まれながらにして、すでに救われている存在です。しかし、そこに我が出てきて、事実から遠ざかっていくのです。
ですから、自分を学ぶのです。坐禅しましょう。

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おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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一切に心を配ることです

歩いていても、掃除しながらでも
禅定の状態になれます。

今の結果からこれまでの過程、過去を考えて、これから過去となる今を観ながら未来を思い描く。
これを一点集中ではなく、一切集中つまり、あらゆる事柄について行う、これが禅定です。
現在から過去を観、現在から未来を観る。
するとそこから智慧に到達できます。

あなたはもちろん、私たちはそれを日常的に瞬時に行っております。
しかし、断続的であるため気がついておりません。
無意識にやるのはまだ凡夫。
気がついてやれば菩薩になれます。
「そのあと、」再び無意識にやれは仏となるのです。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れ...
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質問者からのお礼

難しいですが、行じてみます。ありがとうございます。

丁寧に御回答いただき感謝しています。
それぞれ説き方は違えど、内容は同じと受けとめました。
いろいろな説き方により、困惑ではなく深まった気がします。
ありがとうございました。

「悟りとは」問答一覧

悟り体験と仏教との関わりについて

こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?

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悟りや天国に優しさは必要ない?

仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。 酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。 (実家は浄土真宗です) などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ