回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
子供のころ保健室で寝た記憶はありますでしょうか?
天井を眺めて、天井の模様というかシワというか、そういうのを何かを考えるでもなくシゲシゲと眺めている感じです。そういう時は雨上がりの晴れ間の景色のようにクリアーに見えることがありますよね。それが全方向からやってくる感じです。アッチの方からストーブの音が静かにコォォォっと聞こえる…コォォォ。コォォォォォォってよく聴こえてくる…
それが悟りと違うかと問われますならば、一緒ですと答えましょう。でも、これが悟り!と思ってしまったら、もう悟りではないのです。コォォォがコォォォであって、コォォォをコォォォのままコォォォするのです。コォォォは悟っているのだから、コォォォに悟りは余計なのです。
どうすれば禅定になれるか…お寺に行きましょう。身体のことは病院の先生に検査してもらわないと何とも言えないように、禅定のこともお寺のお坊さんに実際に見せていただかないと何とも言えません。
もともとが禅定
CMで
「一からやり直しですか?」
「いいえ、ゼロからよ」
というのがあります。
あなたはこれをご覧になっている時におそらく「1」から思考をスタートさせてみていると思います。
ですが、万人の真相は、
「ゼロ」がら、思考を交えずに瞬時瞬時、思考を交えずに眺めている状態があるのです。
ここに気づけばいつでも禅定は始まります。
思いが主体にならない。
感受、事実が主体となる。
多くの人は思考を主体とさせて思考を軸にしている。
これは禅定だろうか、これが禅定だろうか、と自分を探るのも思考です。
禅定は、人間に元々具わった「出だしの一歩」いや「でだしのゼロ歩目」歩まんでもいいのです。
最初の元々が本来成仏だからです。
坐禅会に参加してその指導者のいうことをよく見極めることです。
これからゼロに向かわせるアクションがある坐禅はパッチもんです。
向かわんとするワンアクションがあるからです。
よき指導者に巡り合えることを祈っております。
何かをすることではない
そうした救いを求めるのであれば、他に求めてはいけないでしょう。
何か特別なことをして特別なものを得ようとしては、修行にならなくなります。
悟りとはこういうものだと、頭で先に決めつけていてはそこに到達することはないでしょう。
徹底して言えることは自分を知ることです。自分と思っているものはいったい何か、そこに気づき、救われていきます。
人は生まれながらにして、すでに救われている存在です。しかし、そこに我が出てきて、事実から遠ざかっていくのです。
ですから、自分を学ぶのです。坐禅しましょう。
一切に心を配ることです
歩いていても、掃除しながらでも
禅定の状態になれます。
今の結果からこれまでの過程、過去を考えて、これから過去となる今を観ながら未来を思い描く。
これを一点集中ではなく、一切集中つまり、あらゆる事柄について行う、これが禅定です。
現在から過去を観、現在から未来を観る。
するとそこから智慧に到達できます。
あなたはもちろん、私たちはそれを日常的に瞬時に行っております。
しかし、断続的であるため気がついておりません。
無意識にやるのはまだ凡夫。
気がついてやれば菩薩になれます。
「そのあと、」再び無意識にやれは仏となるのです。
質問者からのお礼
難しいですが、行じてみます。ありがとうございます。
丁寧に御回答いただき感謝しています。
それぞれ説き方は違えど、内容は同じと受けとめました。
いろいろな説き方により、困惑ではなく深まった気がします。
ありがとうございました。