過去のいじめ
初めまして。
毎晩、過去の自分の愚かな行動に関して後悔し考えております。
私は小学生の時に、少々知的障害のある女の子をいじめてしまいました。この行動に言い訳することは有りません。
彼女は現在、私の自宅近くのお店で働いている事を知り、一気に当時の事を思い出したのが切っ掛けであまりに遅いですが罪の意識を持ちました。
大人になり、小学生の甥っ子の面倒を見ていると自分は何て残酷な事をしたのだろうと恐ろしくなり、当時のことばかり考えて後悔しております。
何で馬鹿にしてしまったんだろう、助けてあげなかったんだろう、どれだけ傷つけてしまったんだろう…
こんな自分に善人の人生なんか送れないし、送られるべきでは無いのも重々承知の上です。甥っ子にも、綺麗事ばかり言っている自分が情けないです。
しかし、この私の悪い行いが甥っ子や家族に影響してしまうかと思うと自分勝手ながら恐ろしくてしょうがありません。
私はこのまま、後悔し恐れて生きていくのが彼女への罪滅ぼしになるのでしょうか?
それとも、直接謝罪するべきなのでしょうか?
乱文となり申し訳ございません。
何卒、喝を入れていただければ幸いです。
何卒宜しくお願い致します。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分自身で見つめ合って
仏教でも、キリスト教でも、自身の行動を反省し改めることを「懺悔」といいます。
思うに、この懺悔行こそが宗教の根幹の一つではないかと思うのです。
あなたが今、昔いじめてしまった方に出会い、過去の過ちに気付いたのは大きな一歩です。
0はいくらかけても無意味ですが、1はこれからいくらでも大きくなりますから。
しかし、あなたの罪悪感は、「相手をおもんばかる心」ではなく、まだ「罪を犯してしまった自分への哀れみ」の域だと思います。罪を犯した自分がかわいそう、という境地です。
言い方はきついようですが、それは決して悪いことではありません。罪を犯したことによって「あなた自身が傷ついた」ということは事実です。殴った手が痛むように、罪は相手と同じくらい自分自身を傷つけるのです。
まずは、自分の犯した罪としっかり向き合い、懺悔し、罪としっかり向き合いましょう。辛く、時間がかかるかもしれません。それでも良いんです。懺悔とは、それがそのまま修行なんですから。自分自身の器をしっかりと綺麗にしなければ、いくら罪滅ぼしをしようと意味がありません。汚れた器に注いだ水が薄汚れてしまうがごとしです。
その自身の器を綺麗に洗い流してあげるのが懺悔行です。
そして、心から「悪いことをしたな」と思えたとき、あなたの懺悔は「自身への哀れみ」から「相手への慈しみ」に変わるはずです。もしその思いにまで達することが出来たとき、真心のまま謝りに行かれてはいかがでしょうか。
昨今、過去の罪やいじめを気軽に謝罪する場面を良く目にします。それは、「罪を償う行為」ではなく「自分を許してもらうためだけの行為」なんですね。
そうではなく、まずは自分自身の中でしっかり考える。
それから、どれだけ責められてもいいと思うくらいすっきりとした気持ちで謝罪する。
これが本当の懺悔だと思うのです。
行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多き者
”こんな自分に善人の人生なんか送れないし、送られるべきでは無いのも重々承知の上です。甥っ子にも、綺麗事ばかり言っている自分が情けないです”
うん、仰る通りですね。
あなたはもう二度と善人の人生なんか送れないよ。甥っ子さんには、いじめはダメですよ、仲間を大切にしましょうねと立派な事を言ったって、もし「お前はやってたやん?」と言われたら、もう返す言葉もないですよねー。
”私はこのまま、後悔し恐れて生きていくのが彼女への罪滅ぼしになるのでしょうか?”
そんなことで彼女への罪は滅ぼせませんて。
”それとも、直接謝罪するべきなのでしょうか?”
それも大切。ただし「ごめんね」→「いいよー」と言ってもらったところで、あなたは本当に気が済んでしまうの?その程度の後悔?そもそも、”いじめ”の事実は消えないよ?
だから、悪の自覚を持った悪人としてこれからも生きていってください。
いじめはサイテー。いじめは最悪。
できることなら私は、あなたのところへ行って思いっきりひっぱたいてやりたい。
しかしながら、仏様はあなたのように間違えてしまう者のために法を説き、あなたのような悪人をめあてに働きかけてくださっています。仏教は、”いじめをした罪”をあなたが人生を完遂するその日までしっかり背負いきれるよう必ず支え続けてくれるでしょう。
直接謝罪です
悪かったと思ったならば謝りましょう。
相手の方があなたを許すかどうかはわかりません。
しかし、許そうが許されまいが、とにかくあなたの反省の意を伝えて下さい。
相手の方に対する謝罪もそうですが、今まさに苦しいあなた自身の救済もあなた自身でしなくては。
仏教は悪人と善人とを区別するための教えですか?
他人に入れられる喝より、自分の喝です。
勇気をもって!