hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お釈迦様は今、どこにいるのでしょうか?

回答数回答 2
有り難し有り難し 44

歴史上の人物、肉体を持った実在の人物としての
ゴータマ・シッダルタ様は2500年も前に入滅されましが
今も仏様として私達に寄り添い、見守って下さってるんでしょうかね?
そうあって欲しいなと願います。

-南無釈迦牟尼仏-


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

佛口所生(ぶっくしょしょう)

おはようございます。拝読いたしました。

仏様やお浄土などは、お釈迦様のお話の中、お教えの中から出てくるものですね。方便説法の物語の中のことであって、歴史的事実ではありません。
仏様にしろお浄土にしろ、仏様が久遠実成の仏であってこそ、仏も浄土も生きてきます。

生身のお釈迦様は、貴方の仰る通り80歳で亡くなられますので、今まで説かれた説法はそこで消えてしまいますが、「久遠実成のお釈迦様」がいらっしゃればこそ、種々の経典に説かれている無量の諸仏もその浄土も成り立つ訳です。(佛口所生)
久遠実成のお釈迦様は「無始無終の存在」であり、何時でも、誰でも、救って頂けるのです。

我々仏教徒は、「肉体が滅んでも、霊魂は滅ぶものではない。」「霊魂とは、永遠に続くもの。」という認識を持ち、「仏様と一緒になって、永遠に続くんだ。」という意識の中で生活をすること、至心至誠に仏と向き合うことにより「安心(あんじん)を得た生活」を送ることが大切なのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

初めまして。桑木茂光と申します。 大阪最北端に位置する能勢町にございます...
このお坊さんを応援する

釈尊が入滅しても、釈尊の教えは生きている

仏教には、仏を分類する「三身」という思想があります。
・法身(ほっしん)→真理そのもの
・報身(ほうじん)→ほとけのはたらき、その姿
・応身(おうじん)→真理を説くためにこの世に生まれた仏
です。

この場合、釈尊は「応身」にあたります。真理に気付き、それを悟り、現実世界で私たちに説いて下さいました。
しかし、その釈尊自身、生前に「私を信仰してはならない、私の説いた法を信仰せよ。わたしを灯にしてはいけない、法を灯とせよ」とおっしゃっています。(スッタニパータか、ダンマ・パダだったとおもいます。。。笑)
まさにこれは、釈尊が「私という人間ではなく、教えそのものである法身を信仰せよ」と言っているんですね。

真言宗では、法身仏は大日如来(宇宙そのもの)で、応身仏は阿弥陀如来など具体的に私たちを救ってくださる働きをもった仏さま、そして応身を釈迦如来などと説いています。(あくまで真言宗では、です。浄土系では阿弥陀如来を最高仏とします)

つまり、釈尊は真理を悟ち伝えた偉大な人間ではありますが、真理そのものは絶対に変わらないんです。私たちの中にも真理がありますし、私たちもその真理に気付くことが出来るのです。

これを弘法大師空海は「それ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し」と表現しています。
大日如来という人格はないんですね。大日如来は「真理そのものの象徴」です。

結論を申しますと、「釈尊が入滅しても、釈尊の教えは生きている、しかも永遠に。」
なぜなら、釈尊の教えとは、真理そのものであり、真理は不生不滅だからです。

釈尊含め、そうした仏さまたちは常に私たちをみまもってくれています。
あなたのすぐそばで・・・だけでなく、あなたの内側からもです。

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
死とは他人の事として考えれば、生命活動の停止と言う
厳然ではありますが、きわめてシンプルな事実に過ぎません。

しかし自分自身の事として考えるとかなり厄介なもので
私が生きている時は死んでいないし、死んでしまえば
「死を経験している」私も居なくなります。
誰も死を経験していないし、死後どこに行くのかは誰もわかりません。
人と言うか、あらゆる生き物にとって、死は経験できないものであり
永遠に謎なのだと思います。

お釈迦様の入滅と言う事について様々な見解があるのは、
過去から現在まで、様々な僧侶や信徒の方が、釈尊の死を他人事と考えず、
翻って自分の身にも省みて、きわめて真摯に考えてこられた結果なのかな、
と拙いながらに感じました。

お釈迦様入滅の日と言う事もあり、何気ない気持ちで質問させて頂きましたが、
色々と考えさせて頂くきっかけになりました。
お礼申し上げます。

桑木茂光 様
ご回答ありがとうございます。
仏の命は永遠であり、仏を信じている限り私達の魂も永遠であり、
でもお釈迦さま自身が「なにかとても大切なもの」を伝える為に入滅と言う
方便を採られたように、「なにかとても大きな存在」は私達に命のかけがえの無さを
わからせる為に、あえて有限の生を現世において与えられたのではないか・・・
と私なりに漠然と考えています。
法華経については勉強中で、また質問させて頂くかも知れません。
お目にとまりましたらご教授いただければ幸いです。

不悪口院 恵成 様
ご回答ありがとうございます。
お大師様の言葉に「生まれ生まれ生まれ生まれて生の初めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し」
と言うものがありますよね。
あえて「暗し」「冥し」と違う漢字を使っているのは、
大日如来様の元から生まれ、同じく大日如来様の元に帰っていくにしても、
生前の無明と、死後の境涯、違ったものと捉えているからなのだと
私なりに考えています。
お釈迦様の入滅を他人事と捉えず、内なる仏様を意識しながら
日々の生活を送りたいと思います。

また、お釈迦さまと言う応身仏を通して、法身としての大日如来様の
教えを学びたいと思います。

-追記-
不悪口院 恵成 様
ブログに問答を掲載させて頂き、有難うございます。
他の記事も興味深く拝読させて頂きました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ