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「チベット仏教哲学」について

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松本史朗氏は『チベット仏教哲学』に於いてツォンカパを称賛される一方で、
「縁起説を擁護するツォンカパでも、縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった事により、
論理的矛盾から逃れられなかった。」(意訳)
と仰っておられますが、果たしてツォンカパの論理的矛盾とはどういう物でしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ツォンカパ大師「縁起賛」

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

ツォンカパ大師には「縁起賛」という著作もございますが、「縁起賛」はツォンカパ大師の「縁起」に関する見解について、最も理解できる著作であり、そこから鑑みても、「縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった」と果たして言えるのかどうかというところが実はございます・・

「縁起賛」につきましては、下記の内容をご参照下さいませ。

「縁起賛」他
http://goo.gl/Fk8Hje

もちろん、ご質問の内容は、『チベット仏教哲学』松本史朗先生の第9章「ツォンカパ哲学の根本的立場」p287-320、第10章「ツォンカパと離辺中観説」p321-401の内容を指事されてのことであるかと存じます。

松本史朗先生が、「縁起説を擁護するツォンカパでも、縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった事により、論理的矛盾から逃れられなかった。」(ご質問者の意訳) と述べられておられますのは、『「空」(無実体・無自性・無自相)を指示するための空思想・中観思想が、実体論・実在論的なもの、あるいは如来蔵思想的なものへと転落してしまった』ということの論理的矛盾についておっしゃられようとされているのではないかと存じます。

この点は、色々と危惧すべきところがあり、あまりにも「空」を重視しすぎれば、「虚無・絶無」論へと転落してしまう可能性があり、「縁起」を重視しすぎれば、「実体・実在」論へと転落してしまう可能性があり、または、その逆も言えることで、「空」を重視しすぎて、「空」が「実体・実在」論へと転落してしまう、「縁起」を重視し過ぎて、「縁起」が「虚無・絶無」論へと転落してしまうこともあり得るだけに、気を付けなければならないものとなります。

とにかく比量における理解においては、「空」は「縁起」と同等のレベルにて捉えて理解すべきものとして、「空」→「縁起」と「縁起」→「空」と、互いに理解を相互補完すべきものであると存じております。

ツォンカパ大師が、「縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった」のかどうかにつきましては、まだまだツォンカパ大師の中観思想について拙学びの課題として意識して、安易に結論は出さずにおきたいと存じております。ご容赦の程を宜しくお願い申し上げます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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本当の仏教 と 仏教哲学 とは 機能されること異なる

話を簡単にしてみましょう。
①創業者の仏陀が原点。
②数百年後、独自の思想展開をした権威あるフォロワーが龍樹。
③さらにその数百年後、それを論じた松本史朗氏、ならびに「本」。
④その両者のフォロワーのあなた。
⑤そこに突っ込み回答をしている私。
この5人が「共通していないなければならないこと」は、そこに悟りの薬効成分、救いが生じているかどうか。
言葉や文言に迷わされて、悟りや安らぎとは異なる迷いになっていたら仏教に対する求め方にこそ矛盾が生じている、とも言えるものです。
理屈で終わればただの情報の取り扱い。
矛盾が起こるのは文字や論理で仏教を解釈しようとする姿勢であるからです。
それは解釈によるアタマ越しの眺めだからです。自身が仏教を求めて探求したはずなのに、救いとして機能せず、哲学化されアタマの中に情報旋風が巻き起こっているでしょう。
結果的に悟り・安楽状態にならず、思想家頭脳に陥ってしまっていませんか?それでは元も子もありません。解釈は悟りではありません。
釈迦は思索家や思想家、評論家や解釈屋さんではないです。
理論の上で仏教を扱って迷ったらせっかく迷いを打破するための仏教もおシャカになります。
仏教の中には仏教といっても、かえって迷いに導くものも存在するものです。
また、もとめかたのありかたが哲学的であると、悟りを成し得ないことがあるということも見極めてください。
「理に契うもまた悟りに非ず」 参同契
文字が示している中身である仏法の方は文字や論理でない故に、矛盾は生じていません。

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質問者からのお礼

皆様回答して下さり有難う御座いました。

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YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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