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職業上修羅道を歩むかの如く

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有り難し有り難し 19

はじめまして

私は法律関係の仕事をしている者です。

私がお手伝いをするのは、医療関係者の方々です。人様を助けるお医者様、看護師様、助産師様などが、患者の方から訴えられた時に及ばずながら問題を解決するのが私の仕事です。

しかし蓋を開けると、そこは修羅の国です。患者様の怒り、悲しみ、苦しみ。お医者様や病院の経営陣の思惑やプライド。そして私や同業者の応対。そもそも争いごとあっての職場で、そしてそこに身を投じてはや二年、恥ずかしながらそこにいるのが自然となりました。

職場を離れれば、同業者もまた人であることは理解できますし、個人的に憎いと思うことはあまりありません。しかし、仏様の教え通り他人に分け隔たりなく心を開く訳にはいかない仕事なのです。例えどんなに痛ましい患者様であっても、お医者様側を代弁するとあっては「片方の側に付く」他ないのです。そして争い続けなければならないのです。

それが良い悪いではなく、そういう人がいなくてはならないのです。

私のような修羅は、仏様の道とは縁遠き者なのでしょうか。皆様の導きに感謝いたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

医の心をもって 医道をただす

「釈迦は偉大なる精神衛生学者である」とニーチェは言いましたが、そのニーチェは自ら命を絶ちました。
どんな素晴らしい医療も薬も、それを【医】として用いなければ、そこに医療行為が行われません。
私は、ここで回答をしているものの一人でありますが、人によってはその回答は受け入れられません。
薬になっていないのです。
私の表現が劇薬過ぎるのもありますが、本人様も医として服用しなかったならば、劇薬のまま終わります。
あなたが医療業界を支える活動は、医であることには変わりありません。修羅道ではありません。
修羅の中に身を投じ、医の精神で以て、魔道に落ちた医師を導き、苦しみに落ちた人たちの苦を取り除いてくだされば、それは決して修羅道ではありません。
修羅の世界は何処にでもあります。
だからこそ、菩薩の道を行じて、修羅道に陥った人間を、こころの医の精神をもって寮ずるのがあなたの仕事です。素晴らしいことであると思います。

医の世界も仏の世界も、それを修羅界にするのは「私」という損得勘定。
みな「私」を守ることに精一杯。
体の生き死には「私」を超えた生命の働き。
あなたのお仕事は、人の心に巣食う癌細胞「わたくし意識」を緩和、取り除くのがお仕事です。
それが修羅道を、菩薩道、仏道に変えゆく正道です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

法律に臆病になれ

司法書士事務所に務めていたとき、所長から言われたひと言です。これで一気に法律的センスが磨かれました。
司法書士は事件事故を未然に防ぐのが仕事。弁護士は解決するのがお仕事。
お疲れ様です。
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以前から権利という感性は日本人にはなじまない気がしてなりません。
お悩みが生じているのはそのためだと思います。
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ある若い司法書士さんが成年後見は若いものでは務まらないのではないかと仰っていました。若いがゆえに人生経験浅く被後見人に寄り添えないと。
あなたもまた若い。
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葛藤がありましょうが目の前の仕事をしっかりとこなしてください。その経験の積み重ねが、やがて「あの先生にお願いしたい」という日に繋がります。
その時には弱き者の味方になってあげてください。
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お仕事に誇りをお持ちください。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

丹下様 四次元様 ご指導まことにありがとうございます。

丹下様がお教え下さった「医」の一字、改めて調べてみましたところ「矢にかくしがまえ」からなる文字だと初めて知りました。すなわち「医」とは矢を隠す心、痛み・辛み・嘆き・恨み、そして他人に対する「私」という鏃を隠し収める心なのだと今更ながら知りました。

その心、己の私を抑え、人様の鏃を収めようとする心があって初めて正道に向かうのですね。

また、四次元様の「目の前の仕事をしっかりすること」、心に響きました。迷った時こそ足元を見る、目の前の仕事に全力を出す。皆様が苦しいのに、それを支えるべき私の心がブレていてはどうにもなりませんね。

暗闇の中、丹下様と四次元様に手を引いていただいた思いです。

これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

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