多数を守るか、一人を守るか
人の世にはたくさんのルールがあります。
ルールを守るのは大切です。でもルールとは本来、たくさんの人を守るためにあるのだと私は解釈しています。
ルールを破れば犯罪者です。ですが、ある個人を守るためにはルールを破らなければならないこともあると思います。
例えば、ある飢餓に苦しむ町へ食料を運ぶ男がいたとします。
その道中、飢えに苦しむ老人がいました。
男は命令を無視して老人に食料を分け与えました。
結果として男は町の人々を裏切りました。
もしかすると、この遅れが原因で餓死する人がいるかもしれません。
男が老人を助けた行為は間違っていたのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
腹をくくれ
生物は進化します。進化するということは、進化しない者もいるということです。つまり、違いを生むということ。違いを作ることそれ自体が生命の生存戦略なんです。
山中で遭難したとき、ある人は動き回って山小屋までたどり着いたがゆえに助かります。またある人は動き回らずじっとしていたがゆえに救助隊に見付けてもらって助かります。
どちらが助かるか?そこに確実性はありません。条件次第ではありますが、状況が分からない現場で正しく判断できるかどうかは運次第とも言えるでしょう。
だから動き回ろうとする個体と動くまいとする個体を両方、用意する。そこに違いを作ってどちらに転んでも良いようにする。それが生命というものです。
生命に唯一絶対の最適解は存在しないんです。
そこに正解・不正解とレッテルを貼るのは人間の脳みそです。それを仏教では妄想と言います。その問いに答えはありません。
だから私ならこうします。どちらを選んでも腹をくくります。ルールを破って助けるなら、甘んじて罰を受けます。ルールに従うなら、ルールを信じます。どちらも一長一短。その一短から逃避することを、後悔と言います。
でも、もし罰が理不尽で看過できないものなら、全力で逃げます。三十六計逃げるに如かず。逃げると決めたら全身全霊で逃げます。
こんにちは。「北斗の拳」に登場する種籾じいさん(ミスミ)の話を思い出しました(笑)
なるほど。
男は村に帰って、こう言う。
パターンA「いやぁ、途中じいさんが倒れていたけど、大切な食料だ。見捨ててここまで来たんだ。だってルールだもん。」
パターンB 「すまん。行き倒れのお年寄りがいたんだ。彼に少し分け与えてしまった。でも助けないわけにはいかなかったんだ。時間がかかり食料も減ってしまった」
どうでしょう?
困っている人がいたら助けるのは当然だと思いますし、それをとがめる人はいないと思います。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
お礼が遅くなってしまい申し訳ございませんでした。
>>大慈様
求めている回答がまさにこの内容でした。
大勢の人が定めたルールを守るか、自分の意思に従った行為を実行するか、正しい選択肢は本人次第なのだと解釈しました。非常に勉強になりました。
>>光禪様
「北斗の拳」は私も愛読しておりました。北斗の拳ではミスミのじいさんやトヨばあさんなど優しい方が次々と犠牲になっていた覚えがあります。逆に道徳に反したモヒカンほど楽しそうに生きてました。だからこそ、ケンシロウのように困った人を助ける生き方がカッコよく見えるのかもしれませんね。