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古いお守りを全て紛失してしまいました…

回答数回答 4
有り難し有り難し 45

幼い頃に日本を離れ、ずっと海外に住んでおります。子供の頃から古いお守りを3つ持っていました。
今年になって、日本に帰国する機会ができたので、その際にお守りを神社やお寺に返そうと思っていたのですが、3つとも全て無くしてしまいました…。
飛行機に乗る前日に旅行バッグに入れた筈なのですが、日本に着いてバッグの中を確認したら入っていませんでした。うっかり家に置いてきてしまったのではないかと思い、日本から帰った後、部屋の中を探してみたのですが何処にも見当たりません…。
子供の頃からずっと持っていたお守りなので、ショックです。「もしかしたら、どこかで間違えて捨ててしまったのではないか?」「どこか粗末な場所に置きっぱなしなのではないか?」と色々考えてしまいます。
お守りを無くしてから何やら気持ちが落ち着かず、常にイライラしている気がします。職場では上司に口答えして立場を危うくしてしまったり、部下を感情的に怒ってしまったり。プライベートでは、友人の幸せを素直に喜べなくなったり…自己嫌悪に陥る毎日です。
今回、日本に帰国した際に新しくお守りを購入したのですが、あまり効果を得られていない気がします。やっぱり、古いお守りを無くしてしまったから罰が当たったのでしょうか?何か対処法はありましたら教えて頂けませんでしょうか。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「身代わり」

もふねね様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

大切な古くからの御守りを失われてしまわれたとのこと、思い入れ、頼りにするところが大きくおありの中で大変に心細くなっておられることをお察し申し上げます。

拙寺においても役割を終えたお札や御守り、御塔婆や御位牌を読経によるお焚きあげでの浄梵(じょうぼん)の依頼を受けることは多々ございます。浄梵は、一つのケジメ(感謝・報恩・供養)としても大切なことであるかと存じております。

もふねね様もこの度はそのお心積もりで帰国なされたものの、はて、御守りはいったいどこへといってしまったのでしょうかね・・

一つは、自ら役割を終えたことを自覚して、自らで「サヨナラ」をしたのか・・まさかそんなことはないでしょうが・・ただ、この場合、考えられるのは、「身代わり」です。もふねね様への災難・災厄を逃れさすために御守りが、まさに守ってくれたのかもしれません。

もし、そうであれば、御守りを無くされたことでの動揺にて、様々に自己嫌悪に陥られるようなこととなってしまわれていては、守って頂いた御守りたちに逆に申し訳が立たないということにもなりかねません・・

ここは、一つ、守ってくれたことへの感謝を今一度念じて、それらの古い御守りのことは一つのケジメをつけられるべきではないかとは存じております。

そして、新たな御守りに対して、どうかこれからお守りの程を宜しくお願いしますという気持ちを念じられてはどうかと思っております。

気持ちを切り替えて、心の持ちようを心機一転図られることをお勧め申し上げます。

・・

さて、ここからは少し仏教としての補足ですが、本来、仏教では現世利益的なための祈祷という点でのお札や御守りの類は扱いません。ただ、厳密には、仏道修行の妨げとなる災難や災厄を退けるためという面では認めうる余地はあるかと存じております。その仏道修行も、あらゆる一切衆生を救済するための悟りを得んがためにということが重要になるものと考えております。

そのため、拙生も、もちろん神社に参拝して、お札や御守りを頂きますが、どうか仏道が成就できますように災難や災厄を退けて下さいとお願い致して有り難くに頂いております。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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お守りとい物質より、護られているという心が大切です。

私の宗派、浄土真宗では、お守りは使いませんが、
念珠を手に持ちます。
「念」とは、「心にとどめておく」という意味で、
「念珠」は仏様のことを心にとどめておく為の道具です。
つまり、念珠自体に意味があるのではなく、
「いつも仏様と一緒」という心が大切で、
念珠は、それを助けるための道具です。

私は、お守りも、同じような物だと考えています。

私達は、ご先祖様方や、太陽や月、様々なものから護られています。
多くの縁の中で、私が成り立っています。
多くの縁の中で、人として、幸せや感謝や安心を持ちながら生きてゆくことが出来ます。
それは、自分のお陰では無く、自分以外のもののお陰です。

たとえば、感謝ということは、動物は出来ません。
人間は、誰かが感謝を教えないと、感謝する生活は出来ないのです。
それ一つとっても、ご先祖様が、親から子へ、親から子へ、
感謝を伝えて下さった結果、
今、私が感謝することを知っているのです。

そういったことを、心にとどめ、
あまたの縁に護られて、今の私があることを心にとどめておく為に
お守りを持つと考えています。

ですから、無くしてしまったお守りに対しても、
感謝申し上げたらどうでしょうか?
お仏壇の前でも良いし、
お仏壇が無ければ、太陽や、月に向かってでも良いと思います。
あらゆるものが護ってくれてるから、
感謝の目標は何でも良いです。
そうしている内に、心が静まるし、
今まで以上に、護られた自分に気づく事になると思います。

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有り難し
おきもち

45歳 独身 銭湯通い 浄土真宗の僧侶だけど、「中観派です」って言って...
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お守りは守られるべきものか 縛られるべきものか

それはぶっちゃけお守りがあなたを縛っているのではなく、あなたが「モノに縛られてしまっている」ということ。
あなたを守るためのせっかくのお守りがあなたを縛るように扱ってはなりません。
どんなに良いもの、良いグッズ、文字通り❝GOODS❞でも、それに縛られ、失うことで心が❝BAD❞になるようでしたら、真にグッズ=GOODS足り得ません。
でも、それはその「モノ」(お守り)がイケないのではなく、所有する者がそのものを良いモノ❝GOODS❞として扱っていく精神、器量があるかどうかが問われているということです。
「人間は何も所有することができない」というのが悟者・覚者(ものの真実の姿を悟った人)のものの見方。お守りもお金も人間関係も原発も軍隊も離れ島の所有もそれによってそれぞれが守り守られ、傷つけあわず、お互い幸せにできて自由で縛りあわない関係が最上です。
どんなモノはどこまで行ってもモノでしかない。
そのモノに心を付すのが人間。悪い心を付すれば、どんな宝石も、便利な包丁もBADになる。
そのモノを有効的かつ友好的に活用すればまさにモノがグッドなGOODSとなる。
でもそのモノに縛られるのであれば、その精神はGOODではなくNG、NO GOODになっちゃいます。
結論(^<^)よって今回、お守りがなくなった、ということで結果的に、こういうことを学べる機会を与えてくれた、最後の最後まで最高のお守り、GOODSであった。それはあなたの物を大事にするハート、心がけが良かったから、お守りがより一層GOODな心のお守り=強さに導いてくれた、ということ。
※GOODSの話は丹下の創作で根拠はありません。これもGOODSという単語モノをより良く活用した例にすぎません。

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おきもち

ご提案です

もふねね様へ

この度は大変でしたね。
帰国後新しいお守りを購入したようですが
以前と同じところで購入されたのでしょうか。
もし場所が違うようでしたら

提案ですが
そちらの場所に行って購入されて
まず3つのお守りへの感謝をしてください。
そして同じ念を入れて購入をされるというのはどうでしょうか。合掌

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おきもち

鈴木光浄
「人の一生に寄り添うことのできるお寺」を目指しております。さまざまな御縁を...
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質問者からのお礼

とても丁寧なご回答ありがとうございます。最後まで、しっかりと読ませて頂きました。
このまま自己嫌悪に陥っていては、今まで守ってくれたお守りに申し訳が立たないという言葉に、はっとさせられました。
今まで苦労らしい苦労も無く、順風満帆に生きてこられたのもお守りのお蔭だと思っていたので、今回のことで本当に動揺していました。もし、今回、お守りが私の身代わりになってくれていたとしたのであれば、最後の最後まで本当にお世話になりっぱなしでした。
そんなお守りを自らの手で返すことが出来なかったのが残念ですが、これからは新しいお守りを大切にし、気持ちを切り替えていくよう心掛けます。

本当にありがとうございました。

「お守り・お札・護符」問答一覧

お寺の御札/お守り等の授与物について

私は千葉県の在住です。成人です。 観音様への関心が強まりまして、 毎月・朔日/月初にお参りに通うなら在住市内に在るお寺の方が良いかなとも考え、検索して近所に見つけましたが、お寺って、中規模以上くらいにならないと、御札等がある程度の種類の取り扱いが無いところが多いな…と思いまして。 自宅の神棚にお祀りして毎朝お祈り/祈願したいのです。 それで、例えば、東京浅草の浅草寺は生まれてから2~3度お邪魔した事はあるのですが、 遠くはないが、行きたい時に難無く赴けるほど近くはない距離感で、郵送での購入を検討していますが、 「Q:普段から正月のお参りやある程度定期的にお詣りして馴染みがある訳でもないのに、御札やお守りだけを頂く事でも本尊様方のご利益に与れるものだろうか?と思いました。」 そこまで考えるのは少し考え過ぎかどうか…。 自宅近所に見つけた車で5分程度の同じ市内のお寺も聖観世音菩薩を御本尊として、他にも不動明王様もいるお寺で行き付けにしているのですが、浅草寺様と同じ観音様だから関連している…と考えて良いものか、と。 普段現地に顔を見せないのに御札だけねだられても…とは浅草寺の観音様も思わないんでしょうけど…。 或いは、その発見した近所のお寺にお参り時に、同等の金額を浄財としてお布施すれば意義的には同じなのかな…とも一縷考えましたが。 ※勿論、一番良いのは直接その場で授与していただける事、何か御祈願したい時にいつでもお参りできる事だとは承知はしているのですが…。

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聖天様のお守りと参拝について

夫婦関係に悩み、初めてのお寺に観音様の参拝に伺いました。事前にHPを拝見し、聖天様と浴油祈祷の記載もありましたが、何のことか私には理解できない事だと思い、観音様の参拝にと伺いました。 参拝後、本堂横の授与所で、あるお守りに惹かれましたが、お寺の方に"観音様ではなく聖天様ですが宜しいですか?"と2度念をおされ、意味はわからないまま"一旦考えさせて下さい"とその場を離れました。 そして聖天様について携帯で調べると、安易に拝むべきでない、信仰するなら一生、辞めると怖い等の情報を目にしました。 その後別の授与所で、お寺の方に"本堂で念を押された意味は何なのか、聖天様が怖い神様だと目にしたこと、私は一生信仰はできないだろうし、お守りを一度も粗末なく扱えると言い切れないので私が授かって良いのか迷っていること"を尋ねました。すると"確かに聖天様は神様なので私達の様な者に対して何をしてるんだ!と気づかせるイタズラはされます。でも一般の方にはないと思いますし、イタズラもせいぜい転ぶ程度です(私が心配する様な一生を左右するような罰はない)。一生信仰できなくても、綺麗に終われば良いです。願いが叶ったらお供えでも浄財でも構わないのでお持ちし、心を込めて感謝すれば大丈夫です。惹かれたということは心が呼ばれているということなのでお求めになれば如何ですか"と言われ、悩んだ挙げ句、"予め聖天様に、もし失礼があったら申し訳ないのですがお守りに惹かれ授からせてくださいとお参りしても良いですか"と聞くと、"良い事だと思います"と言って頂き、何の作法も知らずただ聖天様に手を合わせ、家庭の状況・観音様の参拝に伺ったがお守りに惹かれ授かりたいこと、もし粗相があったら申し訳ありませんと伝えお守りと共に帰宅しました。 その際はとても心強い安心した温かい気持ちになったのですが、その後も聖天様について調べてしまい、怖い気持ちが肥大し、そう思う事自体失礼で申し訳ない様な、でも分不相応な事に手を出してしまったような恐れを抱き質問致しました(以前の問答を読んだ上でまだ恐れてしまう自分がいます)。 お寺の方のお話をただ信じ、聖天様を触らぬ神に祟りなしと恐れず、他の仏様やお守りと同じ様に考えて良いのでしょうか?そもそも一生信仰とは何を指すのでしょうか?聖天様にお願いをしたら別の神様に同じお願いをしてはいけないのも本当ですか?

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