hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自分自身の気持ちが出せないでいます

回答数回答 1
有り難し有り難し 14

 15年前に、嫁と2人で自動車の事業を始めました。

最初は細々とスタートし3年後に会社にしました。

新しく会社の工場も立てここからさらに大きくなるよう期待も込め気持ちを高
ぶらせていました。

 本当に最初は良かったです。

 従業員も入り意気揚々としていましたが、いつも思ったことをすぐに口に出し、ほとんど毎日のように怒ってた気がします。

 会社になってから12年、なんとか経営してきましたが、従業員の入れ替わりが激しい会社とされ、今までの雇用人数は40人は超えていると思います。誰一人として残っていません。

今現在1の従業員がいますが、大切に対応していましたが3月いっぱいで辞めることになりました。

その影響もあり妻も会社を辞め別れると言っています。

ここ2年間色々と振り返り自分の中で改善してきましたが、生きがいが全くなくなりびくびく生きています。

心の内をすべて表現できませんが、今自分が何なのかもわからない状況の中、先を見たくても見えません。

昔のように家族仲良く過ごしたいです。気持ちも前に過ごしたいです。

考え方を変えたくてもどうしても過去のことを悔んでしまいます。

子供たちに相談したりもしますが、誰かに相談してもただ話のネタになるだけと思いだれにも相談できません。

何かいいきっかけがあると思いこの2年間やるだけのことをやってきましたが、どんどん崩れてきました。

何かいいアドバイスがあれば教えてください。

よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

オレ様オーラを仏様オーラに変える努力

ひー、そりゃ大変でしたな。お可哀そうに。
多分あなたは自分がお強いのでしょう。だから人が離れていくんザマス。好かれる面もあるでしょうが、それにも増して人が辞めていくわ、奥さんまで離れていくわ…って。
ご夫妻で旦那が一人でお遍路さんに3カ月行って帰ってきて、その晩のうちに夫婦ゲンカしたという人がいるそうです。好きな話です。男ってアホですねー。そだねー。そだねー。
自分の中にボクがいるんです。
その「ボクちゃん」がpapaになり切れていないのでしょう。
まずは、こういう話を聞いた後の自分のリアクションを見つめることからです。
「あー、そーだよなー、坊さんの言うこともわかるわ―。で、そこでオレはこう思うんだけど」の❝オレ❞がうるせぇのですよ、自分が強い人って。
人の下に立てる人間になるといいですよ。
オレがオレがよりも、どうぞどうぞで。
傷つくものがあるうちゃ人間、自分(我)が強いのです。
自分のルール、俺様ワールド、オレオレ意識。
そいつがアクセル全開で暴走しているのかもしれません。
もうちょっと燃費のイイ方が車だって「家庭的」じゃないでしょうか。
いい職場って「家庭的」なのです。「安全」なのが家庭的です。
我々男性はみなお坊ちゃんなところがあります。男はいつまでたっても子どもなところがあります。だからこそ、そういう男性特有のサガを自覚して、オンドリのくちばしで人を傷つけないようにしなきゃいけない。
あー、なんだかんだ言っても今の結果が今の俺なんだから改めなきゃいけないことは改めなきゃいかんな―というところは誰から言われるにしても改めなくちゃいかんのです。
オレ様オーラの自覚をなさって、坐禅してワタクシ濃度を今のエスプレッソからせめて麦茶くらいになるまで薄めてください。それはあなたの男気エネルギーをガソリンにすればできるはずです。男は持っているエネルギーの使い方を間違えさえしなければ地球にも女性にも家族にも車にも優しいECOな生き方になるのです。
EGOからECOへ。
自分から発するオーラはEGOな俺様オーラからエコな仏様オーラへ。
未来の車の形が示す形の中に、人間のあるべき姿勢が見いだされるかもしれません。
いずれにせよ車は誰であれドライバーの安全運転がカナメです。
人生の安全運転、自己の安全運転を。って、何うまいこというてますねん。座布団3枚。一枚あなたにあげます。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

煩悩スッキリコラムまとめ