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「悟り」と「死」の違いを教えてください

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有り難し有り難し 68

ブッダの言うように、
私たちの命は因果の一部を勝手に切り取ったものでしかないとしたら、確かに死の恐怖はなくなります。
ただ、それは同時に、生きることと死ぬことの境界線をなくすことになる気がします。
道元の言う「空」も私たちが「波」ではなく「海」そのものだと気づくことなのだとしたら、それは「全体に溶け込む」ことである「死」と何が違うのでしょうか?

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

如衆水入海一味

「波」は「波」である時に「海に戻りたい!」「海に戻らなければならない!」と頑張るでしょうか。既にして「全体」である「海」そのものなのに。

「波」は「海」でありながらもその時その時の「波」であることを全うしています。

ミズノさんもミズノさんという「波」ではありますが、既にして「全体」である「海」に溶け込んでいる存在でしょう。

「死」によってはじめて「全体」に溶け込むのではありません。

「悟り」とは私たちが「波」ではなく「海」そのものだと「自覚」することと表現できるかもしれません。

「死」=「悟り」、つまり「死ねばみんな悟る」と考えるのはちょっと乱暴であって、「悟り」とは状態ではなく「自覚」の問題ではないでしょうか。仏教は自覚教―目覚めの宗教です。

「波」は既に海であることを「自覚」するのであれば「波」であることをまるで遊ぶがごとく全うします。

「波」とか「海」と分けてとらえるのは煩悩の所為です。でも煩悩のおかげ様で今この私という「波」を遊ばせていただいております。

死ぬのは恐いです。でも死んでいけます。死んでいかねばなりません。

煩悩の身ゆえに死ぬのが恐いと自覚させてくれる「海」の教えがただただ有難いのです。

親鸞聖人『正信偈』より

【原文】
遊煩悩林現神通
入生死園示応化

【読み方】
煩悩(ぼんのう)の林に遊びて神通(じんづう)を現(げん)じ、
生死(しょうじ)の園(その)に入りて応化(おうげ)を示す、といえり。

【原文】
凡聖逆謗斉回入
如衆水入海一味

【読み方】
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、
衆水(しゅうすい)、海に入りて一味なるがごとし。

どんな「波」も等しく海に還ります。だって既にして「海」なのですから。もう全体なのに全体に溶け込もうと頑張らなくてもいいでしょう。

南無阿弥陀仏

合掌

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

この世は本来ウナギの白焼きのようなもの

今、目の前の世界に損得や増えた滅したという人間のアタマの「思い方」がないはずです。
ものを見ている時に頭の中に生とか死ということがないでしょう。
私の横ではテレビ「花カッパ」が放映されていますが、どんどん画面が変わって花すら認知されません。
まな板の上でジャガイモやゴボウでも刻んでいる時に残酷だとか殺生だとかいう人はいません。
お刺身やお肉を口にするときに殺生とかあるでしょうか。
考え起こしてラベルを張ればそれが「そのように思われる」作用が生まれます。
今のひと呼吸に年を取ったなぁという「老」があるでしょうか。
全ては一念のなせるワザです。
人間は脳ミソに「超高速自己のあり方評価・分析・判断・認知・分別作用」があります。
それがものの様子に対して「生」「死」というラベルを張ります。
それが一念の掴みです。
もちろん、お子さんが生まれたとか、親御さんが亡くなったということはありましょう。
我々禅の僧侶は引導の際に人をして生死涅槃・迷悟・苦楽・増減を❝絶した❞心を示します。
実相は無相なり。
事実にあ人間の思考が着州される前の様子があります。
ウチの坐禅会ではこれを「はじめに言葉ありきではなくはじめに事実ありき」になりなさいと指導します。
人間の左脳はものごとを分析・分別・評価など言語的見地から実相を捉えます。
ホントの実相のあり様にはウナギにたれを塗りたくっていない白焼きのように、思考のたれを何も塗っていない様があります。
そこをこのような言葉だけで理解するのは、ただの理解で役立たずです。坐禅・禅定して思考の作用、能動意識を滅却して「ただの無色透明の清浄なる事実」を悟ることが悟りというものです。
これを法相、法の相を悟る、法の相を明らめるとも言います。
法の相が明らかになりますと、人間の考え(見解)でものごとを観なくなります。
その時の自己の様子には、モノの現われがただそうあるだけで拾い上げも、追い求めも生じませんから「不生不滅」「生死苦楽」がないのです。
そういう心に本当に導けるのが「導師」というものです。最近じゃインチキ坊主がコスプレでゴニョゴニョお経を読んで人を成仏させたことにしていますが、そんないい加減な導きはありません。生きている人をして生きながらに生死・迷悟をも超えた実相に向かわしむることがホントの引導というものです。
禅会でここを明らかにされますよう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「悟り」と「死」との違いについて

ミズノ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「悟り」と「死」との違い・・

仮に「死」により「悟れる」とするならば、仏道は全く必要でなくなり、自利・利他、智慧・方便など菩薩行も全く関係のないままに、誰もが悟れて、ブッダばかりの世界となっているはずですが、そんなことはありません。

また、「死」は、肉体と共に、肉体に左右されていた粗い意識の「死」であり、「死」により全てが無となるわけでもありません。

「死」により、粗い意識が止むと、(過去世から相続してきている)微細な根源的意識が起き上がり、その微細な意識と共にある風(ルン)が、生前、過去世から積んできている業(カルマ)の影響を受けながら、次の輪廻(迷い苦しみの連続)の生へと向かってゆくのであります。

ただ、その微細な根源的意識においては、死によって「死の光明」と言うものも立ち顕れるのですが、凡夫は、その「死の光明」を知覚したり、コントロールしたりすることはできずに、結局は、業(カルマ)に流されて、次の輪廻へと向かうことになってしまいます。

しかし、密教の無上瑜伽タントラの修行を積んだものであれば、その「死の光明」を活かして、一気に修行を前へと加速して進めることも可能となります。

そのあたりのことは、ヤンチェン・ガロ大師「基本の三身の構造を明らかにする燈明」に詳しくございます。

いずれにせよ、根本的な無知である無明を対治すると共に、その無明を元とする煩悩による行いの集積である「業」(カルマ)を浄化しえない限りは、例え、死んだとしても、また、次の輪廻へと向かってしまうことになるのであります。

「悟り」へと至るためには、顕密共に仏道により智慧と福徳(功徳)の二つを積んでいくことが必要であり、業を清らかに調えつつ、煩悩障と、最後には所知障を断滅することが求められるのであります。

川口英俊 合掌

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