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二諦解釈について。

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ツォンカパと龍樹の勝義諦 世俗諦についての解釈の違いは何でしょうか?

2015年12月15日 16:08

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

質問の為の質問に意味はない

事実は一つ。解釈は無限。
悟りという心のありよう、事実は一つです。
解釈は悟りではない。解釈は人が後から後付けて意味を添えたもの。実質的には思想です。
「解釈」の世界を相手にしたってショーガナイでしょう。
解釈や思想は悟りじゃないんだから。(._. )
解釈ってのは知識、情報、アタマの中のワールドですよね。
そういう風に仏教を知識や解釈で理解しようとするのはペケです。
それは知を愛するスタンス「哲学」です。
「哲学」では悟りに至れません。
仏教は「知」を愛するのではなく「事実」を愛するのです。
龍樹、ツォンカパの解釈以前の事実。
「はじめに言葉ありき」目線では哲学、学問。
「はじめに解釈ありき」目線も哲学、学問。
「はじめに事実ありき」ビジョンが仏教。
解釈以前の世界に住することだからです。
ずーっと、理屈っぽいことを訪ねておられますが、あなたは何をやっているのでしょうか。
それをやって悟れましたか?
心が安らかになりましたかな?
そういう知識欲を満たすようなことばかりやっていて悟れると思っておられうのですか?
「深遠な」という事で仏教を高みに祀り上げて特殊化させる煩悩の一種です。
そこに向き合ってみましょう。
いつまでも論や解釈を論じても「人生の苦しみの根本的解決」にならないのではないでしょうか? 
(-"-)ここまで申し上げるのは、あなたに本当の仏教に出逢って頂きたいからです。
あなたはそれを探求することが仏教だと思っておられ熱心に求めておられますが、それをやった結果の実質を観て頂きたいのです。
ここまで厳しく申し上げるのは、かくいう私もそういうことばっかりやってきたからです。
ですが、理屈ばっかりで全然悟りに至れなかったからです。
南を目指してはじめの一歩を間違えると別の方向に行ってしまうのです。
悟りを目指して解釈・思考の世界に向かっても何の益もないのです。
解釈、分別、分析で悟りを求めても求めるスタンス自体が間違っちゃっているので悟れませんよ?
学問をやりたければやり続けてください。
生老病死から救われる中身のある仏教を学びたければ、お釈迦様のように、それを捨てる勇気をもつことです。君見ずや絶学無為の閑道人

2015年12月16日 22:05
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 坐禅会 法話・提唱会 毎週...

「二諦」を理解する意義について

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「龍樹大師の二諦」と「ツォンカパ大師の二諦」の相違についてのご質問、誠にありがとうございます。

龍樹大師が「中論」にて「二諦」について言及されて以降、世俗諦と勝義諦のそれぞれの解釈につきましては、精緻な議論が展開されて参りました。

例えば、「中論」の主な注釈書だけでも、ピンガラ大師の「注釈論」、ブッダパーリタ大師の「根本中論註」、バーヴァヴィヴェーカ大師の「般若灯論」、チャンドラキールティ大師の「浄明句論」、そしてツォンカパ大師の「正理大海」、また著者不明の「無畏論」と、ここで数えるだけでも六つもございます。

その中でも中観帰謬論証派の流れとなりますのが、ブッダパーリタ大師、チャンドラキールティ大師、ツォンカパ大師のものとなって参ります。

そして、ツォンカパ大師の中観思想も、チャンドラキールティ大師の中観思想とやはり異なるところがございまして、「二諦」の解釈においても、確かに、ツォンカパ大師は、チャンドラキールティ大師の「入中論」における二諦解釈を引き継ぎながらにも、独自の二諦解釈を示されておられます。

さて、ご質問の内容に戻りますが、正直、違いというよりか、釈尊以来の「二諦」に関する教説というものが、時代に応じて、精緻な議論が必要になっていったというものとして、違いではなく、釈尊から龍樹大師へと引き継がれた「二諦」の議論が、更に発展して、ツォンカパ大師まで至ったということになるのではないかと存じます。

ただ、龍樹大師の二諦にしてもツォンカパ大師の二諦にしても、理解する上で大切となるのは、二諦において、何を否定して、何を肯定するのか、あるいは、何を否定するにしてもどこまでとなるのか、何を肯定するにしてもどこまでになるのか、そのことを明らかにすることによって、一切のモノ・コトについて正しく設定することができ、迷い苦しみのありようから、悟りのありようまでもを正しく設定することができるというものとなります。

そして、正しい悟りへと向けた階梯を明らかにすることによって、悟りへと向けた取り組みにしっかりと励んでいけるようにするためとなります。

上記のことが、二諦を理解する意義というものとなります。是非、しっかりと理解して、仏道の修習に努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

2015年12月17日 12:31
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

皆様 回答して下さり有難う御座います。

「仏教全般」問答一覧

仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

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どちらの宗派、教えを信じれば良いのか

初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

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