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二諦解釈について。

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ツォンカパと龍樹の勝義諦 世俗諦についての解釈の違いは何でしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

質問の為の質問に意味はない

事実は一つ。解釈は無限。
悟りという心のありよう、事実は一つです。
解釈は悟りではない。解釈は人が後から後付けて意味を添えたもの。実質的には思想です。
「解釈」の世界を相手にしたってショーガナイでしょう。
解釈や思想は悟りじゃないんだから。(._. )
解釈ってのは知識、情報、アタマの中のワールドですよね。
そういう風に仏教を知識や解釈で理解しようとするのはペケです。
それは知を愛するスタンス「哲学」です。
「哲学」では悟りに至れません。
仏教は「知」を愛するのではなく「事実」を愛するのです。
龍樹、ツォンカパの解釈以前の事実。
「はじめに言葉ありき」目線では哲学、学問。
「はじめに解釈ありき」目線も哲学、学問。
「はじめに事実ありき」ビジョンが仏教。
解釈以前の世界に住することだからです。
ずーっと、理屈っぽいことを訪ねておられますが、あなたは何をやっているのでしょうか。
それをやって悟れましたか?
心が安らかになりましたかな?
そういう知識欲を満たすようなことばかりやっていて悟れると思っておられうのですか?
「深遠な」という事で仏教を高みに祀り上げて特殊化させる煩悩の一種です。
そこに向き合ってみましょう。
いつまでも論や解釈を論じても「人生の苦しみの根本的解決」にならないのではないでしょうか? 
(-"-)ここまで申し上げるのは、あなたに本当の仏教に出逢って頂きたいからです。
あなたはそれを探求することが仏教だと思っておられ熱心に求めておられますが、それをやった結果の実質を観て頂きたいのです。
ここまで厳しく申し上げるのは、かくいう私もそういうことばっかりやってきたからです。
ですが、理屈ばっかりで全然悟りに至れなかったからです。
南を目指してはじめの一歩を間違えると別の方向に行ってしまうのです。
悟りを目指して解釈・思考の世界に向かっても何の益もないのです。
解釈、分別、分析で悟りを求めても求めるスタンス自体が間違っちゃっているので悟れませんよ?
学問をやりたければやり続けてください。
生老病死から救われる中身のある仏教を学びたければ、お釈迦様のように、それを捨てる勇気をもつことです。君見ずや絶学無為の閑道人

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「二諦」を理解する意義について

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「龍樹大師の二諦」と「ツォンカパ大師の二諦」の相違についてのご質問、誠にありがとうございます。

龍樹大師が「中論」にて「二諦」について言及されて以降、世俗諦と勝義諦のそれぞれの解釈につきましては、精緻な議論が展開されて参りました。

例えば、「中論」の主な注釈書だけでも、ピンガラ大師の「注釈論」、ブッダパーリタ大師の「根本中論註」、バーヴァヴィヴェーカ大師の「般若灯論」、チャンドラキールティ大師の「浄明句論」、そしてツォンカパ大師の「正理大海」、また著者不明の「無畏論」と、ここで数えるだけでも六つもございます。

その中でも中観帰謬論証派の流れとなりますのが、ブッダパーリタ大師、チャンドラキールティ大師、ツォンカパ大師のものとなって参ります。

そして、ツォンカパ大師の中観思想も、チャンドラキールティ大師の中観思想とやはり異なるところがございまして、「二諦」の解釈においても、確かに、ツォンカパ大師は、チャンドラキールティ大師の「入中論」における二諦解釈を引き継ぎながらにも、独自の二諦解釈を示されておられます。

さて、ご質問の内容に戻りますが、正直、違いというよりか、釈尊以来の「二諦」に関する教説というものが、時代に応じて、精緻な議論が必要になっていったというものとして、違いではなく、釈尊から龍樹大師へと引き継がれた「二諦」の議論が、更に発展して、ツォンカパ大師まで至ったということになるのではないかと存じます。

ただ、龍樹大師の二諦にしてもツォンカパ大師の二諦にしても、理解する上で大切となるのは、二諦において、何を否定して、何を肯定するのか、あるいは、何を否定するにしてもどこまでとなるのか、何を肯定するにしてもどこまでになるのか、そのことを明らかにすることによって、一切のモノ・コトについて正しく設定することができ、迷い苦しみのありようから、悟りのありようまでもを正しく設定することができるというものとなります。

そして、正しい悟りへと向けた階梯を明らかにすることによって、悟りへと向けた取り組みにしっかりと励んでいけるようにするためとなります。

上記のことが、二諦を理解する意義というものとなります。是非、しっかりと理解して、仏道の修習に努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

皆様 回答して下さり有難う御座います。

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