仏教から見たキリスト教
毎朝、自宅の神棚に手を合わせ、インドネシアのガムランボールでお払いをし、キリストキリスト教会で聖書を学び、仏教も学ぼうとしている、多神教のような中途半端なのですが、神様に頼るから手を合わせるのですが、神様はいるのだろうか、全員の祈りが聞き届けられたら、矛盾が生じるとも考えてしまうことがあります。
仏教から見たキリスト教の率直な考えをお聞かせください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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正しい発想は正しい信仰に重要です
やっぱり最初のうちはどうしても神様は存在するのか?とか、仏様って神なの?人なの?という話題になりがちですね。
でも、キリスト教や仏教に詳しくなるにつれて、そういう話題って一切興味なくなるんです。来世って有るの?無いの?とかどーーーでもよくなるんです。
だんだんキリスト教のアガペーと仏教の慈悲ってどこが同じでどこが違うんだろうとか、キリスト教教の「汝の隣人を愛せよ」と仏教の利他ってどう違うのかな?とかそういう話題に変わっていくんです。
池上彰さんの番組でよくイスラム圏の番組が「日本に学ぼう!」みたいな感じでやってるVTR を紹介なさっているんですけどね、これがまた面白いんです。
日本の小学生は子供たちがみんなで掃除をするんだ!使用人にやらせるのではなく、生まれの違いの関係なくみんな等しく自分で床に膝をつけて雑巾がけをしたり、トイレを掃除をする。だから謙虚な心が養われるんだ!素晴らしい!これぞアッラーの教えだ!
じゃあ何故そんなことが実現できるのか?日本の大人は毎朝オフィスの神棚に向かって礼拝するんだ!そうやって大人が率先して謙虚な心を養うんだ!だからそんな親に育てられる子も自然と謙虚に育つんだ!素晴らしい!これぞアッラーの教えだ!!!
みたいな感じです。面白いでしょ?教えに対して謙虚な人は「日本の神棚は多神教だから唯一神アッラーを否定しとる!」なんて言わんのです。何故なら大切なのはどっちが正しいかを論ずることではなく、自分が教えを実践することだと理解しているから。何故理解しているかというと、教えに謙虚だから。
キリスト教でも本当に信じている人って、こう考えるんですよね。
「病気を治してくださいとか、受験で合格しますようにと祈っても神は私の願いを叶えてくれないだろう。でも、いつかきっと神の意志が完成された時、神は我々を本当の救いへと導いてくれるだろう。」
そうやって神が目指すところを自分も信じてついて行くんです。ちょうど織田信長の天下布武の理想を信じて、信長包囲網を共に耐えた家臣団のように。神のお手伝いをさせていただくかのように。私の目にはそんな風に映っています。そういう姿は、美しいですよね。